2016年05月04日
スポンサーリンク
2016年05月04日
本日5月4日は、日本のアイドル産業に於ける分岐点を築いた重要人物・菊池桃子の48回目の生誕記念日である。
敢えて近年の彼女の活動状況には触れないでおくとするが、アイドルとしての活動を停止してもなお、格好のニュースネタを度々提供し、かつてのファン世代は未だ複雑な思いに襲われることを余儀なくされている。そもそも、立ち位置からして従来の芸能界然としたアイドルとは異質だった桃子。そのデビューのきっかけは、学研が1983年(昭和58年)に創刊したチェリーボーイ・ジェネレーション向けアイドル雑誌「Momoco」であった。
前年の派手な新人アイドル戦線が、両手で数えられる程の超人気者を残して落ち着き、ある程度静寂期を迎えた83年のアイドル界に投下された「Momoco」は、読者の仮想恋人的存在を提供する場として、芸能界の華々しさと一線を画すメディアとなったが、そこに「名前」を与えた者として、菊池桃子は充分にシンボリックだった。その中枢には「モモコクラブ」というコーナーがあり、アイドルの卵達が毎月フレッシュな写真を提供していた。そこからは酒井法子を始め、後に大ブレイクするアイドルが大挙登場した。
「スター誕生!」に象徴されるアイドル製造システムと全く異質のバックグラウンドから、突如芸能界最前線に放り出された彼女は、いよいよ歌手デビューへと進む。「スタ誕」を放映していた日本テレビ傘下に81年誕生したVAPレコードがアイドルを手がけるのはこれが初めてではなかったが、「Momoco」やその姉妹誌「BOMB」の投稿コーナーから生まれた映画で、彼女の初主演作となった「パンツの穴」、CMに起用した資生堂等が絡む大メディアミックスに助けられ、同社初の強力デビュー作戦の下、シングル「青春のいじわる」が届けられる。84年4月21日のことだ。
同曲そのものも、従来のアイドル歌謡曲のイメージを大きく覆す一曲だった。まず、桃子の全く気負いのない歌。単に歌唱テクニックの欠如と片付けられない、混じりけのない少女の声がそこにあった。もっとも、彼女自身は元々ピアノの名人であり、音楽的素質が全くないと言うと嘘になるのだが、そこまでテクニックを計算できるスキルを持ち合わせていなかったのは幸いだったと言える。現にテレビに出てこの歌を歌った彼女は、全く微動だにしなかった。まっすぐすぎにも程がある。
そんな彼女を支えたのは、70年代からシティポップ系の作曲家として地道に努力を続けてきた林哲司。60年代にアウト・キャスト、ザ・ラヴといったGSで活躍後、裏方としてJ-popの新時代構築に尽くすことを選び、トライアングル・プロダクションを設立した藤田浩一(09年没)。この作曲家・プロデューサーコンビは、前年に手がけた杉山清貴&オメガトライブの大ブレイクで、VAPとトライアングルの地位を大躍進させた。桃子はその好調軌道に乗せられ、スムーズに発進することができたのである。デビュー・アルバム『OCEAN SIDE』のタイトル曲の歌詞には、彼らのファースト・アルバム『AQUA CITY』へのリスペクトを兼ねた言及が見られる。
そして、作詞を手がけたのは、これがアイドルへの初の歌詞提供に近いケースとなる、あの秋元康である。この後、5枚目のシングルで後述する映画の主題歌「BOYのテーマ」に至るまで作詞を手がけているが、その発売2か月後、明らかに「モモコクラブ」を下敷きにより大規模なクロスメディアに変容させたと言えるおニャン子クラブの初シングル「セーラー服を脱がさないで」を手がけ、桃子人脈を離脱、現在のアイドルビジネスの礎石を築くことになる(ため息)。
アルバムのクレジットに錚々たる演奏メンバーの名を刻みつけての洗練されたサウンドと、気負いない歌声の不思議な融合は、瞬く間に当時のヴァージンボーイ達の心を捉え、シングルはオリコン13位、売り上げ14.3万枚の好調スタート。この曲のインパクトが後に名声を得るミュージシャンの心に大きいものを植え付けた証は、X JAPAN「Silent Jealousy」(91年)に刻まれている。同曲のサビのフレーズが「青春〜」のイントロにあまりにも似ているのだ。
この成功はマスメディアにも訴え、歌番組への出演はごく少ないながら、CM起用社数が大幅に増える結果となる。85年には2作目の主演映画「テラ戦士Ψ(サイ)BOY」が公開され、人気にさらに拍車をかけた。2枚目のシングル「SUMMER EYES」からソロとしての最後のシングル「ガラスの草原」までは、連続してベスト10入り。うち7曲は連続1位を獲得した。その連続1位の6曲目「Say Yes!」は、「動き」を伴う歌唱仕草、秋元のライバル・売野雅勇によるポジティヴな歌詞など、初の「異色作」と捉えられ、いよいよ転機も近いかと思わせた。続く同名映画主題歌「アイドルを探せ」のB面「Ivory Coast」では、初めて林哲司以外のアレンジャーとして、あの久石譲を起用する。
やがて音楽ソフトの主流が完全にCDにシフトし、アイドル・ポップスが苦戦を強いられる時代=88年が到来すると、桃子は突如新バンド、ラ・ムーを結成。音楽性を劇的にチェンジする。その時にロックバンドという形容を用いてしまったため、後に彼女のキャリア史上最も滑稽なネタとして扱われる悲運に付きまとわれることになるわけだが、音楽的には従来の桃子サウンドにアーバン風味を加えたという程度のものである。しかし、その程度で時代に迎合できるわけがない。ラ・ムーの活動終了後、91年にひっそり一枚、自作曲を含む野心的なアルバム『Miroir』を出した以外、桃子の芸能活動はもっぱら女優としてのものに限られ、アイドル経験で得た明朗なキャラクターにさらにかげりが加わった個性派ぶりを確立している。2014年にはデビュー30周年を記念してセルフカバー・ベスト盤をリリースして、久々に歌声を披露した。
ここまで書いた後で密かに明かすが、筆者もそんな桃子の誘惑に逆らえなかった一人であり、ある悲しい出来事に打ちひしがれた抜け殻には、桃子印の潤いが最適な癒しだった。引越しの際無造作に詰められたVHSテープには、確実に彼女のテレビでの歌唱シーンやCMが大量に残ってるはずだし、アルバムも当時のままちゃんと手元に残っている。そもそも初めて買ったCD自体、桃子のベスト盤『卒業記念』(86年)だった。唯一収められた新曲「Deja Vu」のために、豪華写真集の付いたLP2枚組を手にする代わりに、プレイヤー購入に10ヶ月も先駆けてその大層なBOXを購入する勇気が芽生えたのだ。同じタイトルの付いたオーケストラ演奏によるインストの企画盤には、一曲だけ彼女のピアノ・ソロ演奏が収録されている。先立った吉永小百合や後発のAKB48・松井咲子のピアノ作品集のように、全編弾き倒してほしかったという想いを抱いた者は少なくなかったと思う。
ピアノ云々を別にしても、今改めて音楽的に桃子を捉えてみると、とても新鮮だ。スタッフを共有するオメガトライブがライトメロウという文脈で再評価される一方で、歌声が彼女のものに入れ替わるだけで、とてつもなく甘酸っぱい感覚が醸し出されてしまうのだから。まさに忘れられた青春を呼び覚ましてしまう、フレッシュ100%「桃」なのである。
1985年、4人のアーティストが相次いで「卒業」という同名異曲をリリースし、ヒットチャートを賑わせた。1月21日に12インチ盤で発売された尾崎豊の「卒業」はオリコン週間20位をマーク。続いて2月...
同じ事務所の後輩ワイルド・ワンズやタイガースほどの少女ウケする派手さには欠けるものの、その安定した演奏力で実力派GSとして玄人筋から高い評価を得ていたアウト・キャスト。現在も活躍する音楽界の重鎮...
9月27日は1925年に日本初の地下鉄、銀座線の起工式が行われた日である。銀座線は、銀座駅の「銀座カンカン娘」、上野駅の「さくら(独唱)」、浅草の「花」など駅に合わせたゆかりの曲が発車メロディに...
ラッツ&スター、チェッカーズ、中森明菜、荻野目洋子……80年代に数多くのヒット曲を世に送り出した作詞家、売野雅勇は1951年2月22日生まれ、今年で66歳を迎える。本日は売野雅勇の誕生日。 te...
1981年の12月21日、薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」がオリコン・チャートの1位を獲得した。同年11月21日にキティ・レコードから発売された薬師丸のデビュー曲であり、彼女が主演した同名映画...
1985年12月2日、 小泉今日子15枚目(“あんみつ姫”名義を含む、12インチ盤は除く)のシングル「なんてったってアイドル」がオリコンチャートの1位となった。彼女の代名詞たる作品にして、80年...
1982年の9月9日、TBSの『ザ・ベストテン』で田原俊彦の10作目「NINJIN娘」が前週に引き続き1位を獲得した。オリコン・チャートでは2位どまりだったこの曲、同番組ではトータル3週連続で首...
1986年の今日、9月8日のオリコンチャート1位を飾ったのは、うしろゆびさされ組の4枚目のシングル、「渚の『・・・・・』」である。ややこしいですが、「 」内が曲名。「なぎさのかぎかっこ」と読みま...
1982年7月28日は、中森明菜「少女A」の発売日。明菜にとっては同年5月1日発売のデビュー曲「スローモーション」に続く2作目のシングルで、オリコン・チャートの最高5位まで上昇し、彼女のブレイク...
おニャン子クラブ会員番号36番・渡辺満里奈は、おニャン子では初めてとなる1970年代生まれのメンバーのソロデビューを、86年10月「深呼吸して」で果たしている。このデビュー曲から1位と好発進し、...
1987年(昭和62年)の本日7月13日オリコンチャート1位を記録したのは、南野陽子の8枚目のシングル「パンドラの恋人」である。アナログ末期のアイドルのシングル盤は、現在の所謂「積ませ商法」を殆...
本日7月7日は、おニャン子クラブの会員番号16番、高井麻巳子のソロ・デビュー・シングル「シンデレラたちへの伝言」がオリコン・チャートで1位を獲得した日。今からちょうど30年前、1986年のことで...
今から30年前、1986年(昭和61年)の本日、5月19日付のオリコンチャートの1位が何だったか、すぐ思い出せる方はいますか? …答は、おニャン子クラブの会員番号8番・国生さゆりのソ第2弾シング...
1983年5月16日、松田聖子「天国のキッス」がオリコン・チャート1位を獲得した。聖子にとっては「風は秋色」以来、11曲連続での1位である。主演映画『プルメリアの伝説』主題歌で、この曲の作・編曲...
1985年の5月13日にオリコン・チャートで1位を獲得した中森明菜の「赤い鳥逃げた」は、その2カ月前にオリコン・チャート1位に輝いた「ミ・アモーレ」の異名同曲。80年代に新たな表現形態として注目...
1982年5月3日、薬師丸ひろ子のアルバム『青春のメモワール』がオリコン・チャートで1位を獲得した。内容はほぼ薬師丸によるナレーションと、出演映画のシーンを収録したもので構成されたメモリアル的な...
85年デビュー組は「奇跡」だった。前年、従来のアイドルのイメージを覆した果汁系少女・菊池桃子の登場が刺激となり、アイドル産業は82年組の百花繚乱状態から少しずつ天然かつフレンドリーな方向へと傾き...
アイドル団塊の世代「花の82年組」が相次いで50歳代に突入する中、ついに真打ち登場。しかも1966年の早生まれで“丙午”というおまけ付きである。本日2月4日は小泉今日子の誕生日。 text by...