2016年01月20日

41年前の1月20日、片平なぎさが「純愛」でデビュー

執筆者:馬飼野元宏

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今から41年前の1975年1月20日に、片平なぎさのデビュー曲「純愛」が発売された。


2時間ドラマの女王として、今も高い人気を誇る片平なぎさが、70年代の一時期、歌手活動をしていたことは、アイドル・ポップスに詳しい人ならよく御存知のこと。彼女はもともと日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』で合格し、歌手の道に進んだのだが、アイドル時代にシングル14枚、アルバム6枚をリリースしていながら、今ひとつ歌手としての印象が薄い。


デビュー曲「純愛」は、作詞に山上路夫、作曲には『スター誕生!』の審査員でもあった三木たかしが選ばれ、しっとりした三連のロッカ・バラードに仕上がった。詞の世界は、ペドロ&カプリシャス「ジョニィへの伝言」や麻生よう子「逃避行」など、この時期によくみられた駆け落ちものの世界で、当時16才だった片平が歌うには、かなり背伸びした大人っぽい印象がある。三木たかしをメイン・ライターに据えたアイドルには、前年デビューで同じ東芝の伊藤咲子、73年デビューのあべ静江、77年デビューの清水由貴子らがいるが、伊藤を除けばしっとり系のムードが基本である。だが、片平なぎさの華やかでバタ臭いルックスと落ち着いた歌の世界のギャップは大きく、この逸材をどう売っていこうか、作り手の側にも迷いがあったような印象もある。


というのも、片平なぎさが『スター誕生!』に合格したのは73年12月20日の第9回決戦大会のこと。同時に合格した小林美樹は74年の7月25日に「人魚の夏」でデビューしており、合格から1年以上かけての片平のデビューは、相当じっくりとレッスンを積んだともいえるが、そもそも本人が歌は苦手で歌手に積極的でなかったこともあるだろう。


数年前、片平なぎさ本人にインタビューした際、歌手時代のことを聞いたが「私、暗かったでしょう? 先生たちに素敵な曲をたくさんいただいたのに、私は歌が苦手で……」と語っていた。たしかに片平なぎさの曲はマイナー調の暗めな歌が多く、詞の内容もヘビーなものが多い。「美しい契り」(千家和也=三木たかし)は同じホリプロの山口百恵路線を踏襲したかのような、いささかアナクロな純愛もので、同じ作家による「頬にかかる涙」は恋人の死をテーマにした内容であった。5作目の「陽だまりの恋」、7作目の「オリーブの華麗な青春」は振り付けもあるかなり明るい歌であったが、それとて本人は「あんなに明るい歌をあんなに暗く歌えるのは私だけ」と述懐していた。大いに謙遜もあるだろうが、バタ臭い見た目と裏腹に引っ込み思案で、振り付けで踊りながら歌うなどという行為は、苦手中の苦手だったのだろう。そういう意味では、デビュー曲の「純愛」は彼女の資質をよく捉えた作品だといえる。



この、歌手としては引っ込み思案な片平なぎさを物語るエピソードがある。『スター誕生!』500回記念の番組収録時のこと。番組の審査員でもある阿久悠が、ステージにそれまで輩出されたスターたちが集合した際、後ろの暗い場所にひっそりといた片平なぎさを見つけ、プロデューサーの金谷勲夫に「何とか、片平なぎさが成功例だと知らしめる方法はないものかな。彼女は成功なんだ」と進言したという(阿久悠『夢を食った男たち』文春文庫)。この時、既に女優として成功していた時期であった。


また、片平なぎさの多くのアルバムはセリフ入りである。セリフを入れたアルバムというのは当時、アイドルからベテラン歌手まで割と普通のことであったが、片平の場合は特に多い。シングルでも岩谷時子=鈴木邦彦コンビが提供した第8弾「愛のセレナーデ」に「愛してるって言ってくれるかしら 本当に言ってくれたら死んでもいいわ」というセリフまである。このセリフ部分の表現は秀逸で、このことからも、彼女は苦手といいながらも歌の中で演じることの喜びを覚えていき、多くの感情表現を学んでいったようにも思える。決して歌手時代は無駄ではなかったのだろう。
片平なぎさ

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