2016年06月16日
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2016年06月16日
6月16日は、作・編曲家として活躍する萩田光雄の誕生日。
幼少期からピアノに親しみ、慶応大学在学中はクラシック・ギターのサークルで活動したという萩田光雄は、24歳のときに恵比寿にあるヤマハの作・編曲家教室に通い始めた。終了後にヤマハ音楽振興会に勤務し、アレンジの仕事を手伝うようになる。
アレンジャーとしてのデビューは1973年、ヤマハの出身であるシンガー・ソングライター高木麻早の「ひとりぼっちの部屋」だが、ご本人のインタビューが収録されている『ニッポンの編曲家』(DU BOOKS)によると、それ以前にヤマハ制作のラジオ番組『コッキーポップ』の番組内の曲をアレンジしているそうである。
萩田の歌謡曲アレンジは、74年3月にリリースされた南沙織「バラのかげり」のB面「この街にひとり」がほぼ最初。管弦を主体に落ち着いた透明感のあるアレンジが、筒美京平の書くマイナー・メロディーの叙情性を引き立てている。同年10月には小林麻美のカムバック作「ある事情」、11月には新人・太田裕美のデビュー曲「雨だれ」、75年の新人・岩崎宏美のデビュー曲「二重唱(デュエット)」と、立て続けに筒美作品のアレンジを任されることとなった。
70年代中期から、ニュー・ミュージックの音作りが従来の歌謡曲と接点を持ち始めたが、ここに大きな役割を果たしたのが萩田アレンジである。ことに従来のアイドル歌謡とニュー・ミュージックの橋渡し的な位置で活躍した太田裕美には、ピアノ弾き語りの魅力を打ち出した「最後の一葉」、カントリー・ポップ調の「しあわせ未満」、時代に対しては早かったボサノヴァの「恋愛遊戯」など多彩な編曲を施し、太田裕美にシンガー・ソングライター的な彩りを加えている。これは同じ75年の布施明「シクラメンのかほり」(小椋桂作曲)、76年の梓みちよ「メランコリー」(吉田拓郎作曲)で2年連続レコード大賞編曲賞を受賞したことでも証明されている。歌謡曲とフォークやロック、ニュー・ミュージック系サウンドの融合には欠かせないアレンジャーであった。
萩田光雄の編曲仕事では、山口百恵の一連のヒット曲も大きい。最初に手がけた百恵のシングルA面は、三木たかし作曲の75年12月「白い約束」で、以降は百恵作品の中心的アレンジャーとして活躍。阿木燿子=宇崎竜童コンビを初起用した76年の「横須賀ストーリー」では、映画『太陽の下の18才』主題歌風の印象深いイントロで、イタリアン・ツイストをベースにしたメロディーに鮮やかな色彩を加えている。各楽器の音色を明確に響かせながら派手でコントラストの強いアレンジを施す萩田の編曲法は、センセーショナルに聴き手を煽る百恵のシングル曲で最大の効果を発揮し、ことに随所で印象深いフレーズを刻む矢島賢のギターは重用された。いっぽうでフォーク系のサウンド作りのセンスにも長けているため、さだまさし作曲の「秋桜」でも力量を発揮。羽田健太郎の印象的なピアノのイントロは、シンプルなフォークの曲想に、ゴージャスで上品な色彩を与えている。百恵シングル作における強力なイントロは、萩田アレンジの功績が大きいのだ。「プレイバックPART2」では当時歌謡曲への導入は斬新だったシンセサイザー(まだシーケンサーがなく手弾きであったそうだが)もさりげなく使用している。この曲はぎりぎりまで手直しを要求され、メロディーの完成からレコーディングまでわずか半日しかなかったそうだが、超短期間であの高度で複雑な編曲を生み出した萩田の手腕には、尊敬以外の言葉が見つからない。個人的に百恵作品における萩田アレンジの最高峰は、『山口百恵は菩薩である』の著者・平岡正明に「フォークで始まりリヒャルトシュトラウス風に終わる」と言わしめた「曼珠沙華」ではなかろうか。その展開の凄さに、ただ圧倒されるばかりである。
楽器数の多彩さと緻密でゴージャスなアレンジの代表格に、久保田早紀のデビュー曲「異邦人」(79年)がある。こちらもシンセサイザーを使用しつつ、クラリネットやコンガに加え、民族楽器のケーナやダルシマまで用いてエスニック・ムードを印象づけている。これもまたイントロの絶大なインパクトによって、オリコン・チャートの1位を記録する大ヒットとなった。また、ティン・パン・アレー周辺が参加したいしだあゆみの名盤『アワー・コネクション』では細野晴臣との共同編曲を含め、全編ジャジーで都会的なサウンドを構築し、ここでも歌謡曲とニュー・ミュージック側のサウンド作りの融合に成功している。
80年代に入っても、中森明菜「少女A」「飾りじゃないのよ涙は」、河合奈保子「北駅のソリチュード」、柏原芳恵「ちょっとなら媚薬」、岡田有希子「ファースト・デイト」などのアイドルポップスから、あみん「待つわ」やソロ転向後の岡村孝子作品、小林明子「恋におちて-Fall in Love-」などのニュー・ミュージック勢の編曲まで腕を奮い、南野陽子の諸作ではサウンド・プロデューサー的ポジションで幾多の傑作を送り出した。
編曲家として数多くの名曲を手がけた萩田だが、作曲作品でも大場久美子「エトセトラ」、桜田淳子「サンタモニカの風」など、印象的なナンバーを残した。また、77年に発表されたリーダー・アルバム『SECRET LOVE』では羽田健太郎、武部秀明、高水健司、水谷公生、杉本喜代志、岡沢章ら熟練のミュージシャンが参加、「アクエリアス」「わが心のジョージア」などスタンダードにクロスオーバー・アレンジを施し、リラックス・ムード溢れるハイクオリティなサウンドを聴かせている。
『二十才の記念碑 曼珠沙華』写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
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