2015年05月26日

ジャパニーズ・ビート・ガール 黛ジュン

執筆者:鈴木啓之

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東芝の新人歌手・黛ジュンが「恋のハレルヤ」を歌い、ミニスカート姿で颯爽と登場したのは、1967(昭和42)年2月のことだった。当時の広告には“ヤング・メイトNo.1”のキャッチフレーズが躍る。


前年の6月にビートルズが来日したことがきっかけで、それまでのエレキ・ブームからGS(グループサウンズ)ブームの兆しが見え始めていた頃。かつてビクターから本名の渡辺順子名義でデビューしてカヴァー・ポップスなどを歌うもヒットには至らなかった彼女が心機一転、名前も変えて、ビート感に満ちたオリジナルの和製ポップスで再スタートを切ったのである。黛と同じ東芝のキャピトル・レーベルから66年11月に「想い出の渚」でデビューしたザ・ワイルド・ワンズの第2弾シングル「小さな倖せ」も同じ月の発売。他社では、ブームの中核を成してゆくザ・タイガースも同じ2月に「僕のマリー」でポリドールからデビューしている。そして、古株のジャッキー吉川とブルー・コメッツが前年に「青い渚」「何処へ」などのヒットを連ねた後、レコード大賞を獲るに至る「ブルー・シャトウ」を発売するのが67年3月である。GSにフォークに若手女性歌手ら、和製ポップスの黄金時代へ向けて、正に役者が出揃った感がある。


東芝レコードで黛ジュンを担当したのは、ビートルズの担当ディレクターとして知られる高嶋弘之氏であった。キャピトルで邦楽を最初に手がけたのは、それまでリバティ・レーベルでベンチャーズなどを担当していた安海勲氏。氏がワイルド・ワンズやゴールデン・カップスらのGSやフォークソングを主に担当したのに対し、高嶋氏は黛のほかにも市川染五郎(現・松本幸四郎)などソロ・シンガーを主に担当していたそうで、染五郎が自作自演した代表作「野バラ咲く路」の発売も67年3月。「恋のハレルヤ」や「小さな倖せ」と一緒に売りだしが図られた。黛はデビュー曲に続いて第2弾「霧のかなたに」もヒットさせる。「涙の太陽」の中島安敏の作曲。その後、歌謡史に残る有名な大騒動が勃発したのだった。美空ひばりがブルー・コメッツをバックに歌って5月に発売された「真赤な太陽」をカヴァーし、4曲入りコンパクト盤(=EP)に収められる筈だった件。他人のヒット曲、ましてや歌謡界の女王・美空ひばりの曲を歌うに際し、当然東芝はコロムビアにお伺いを立て、正式に許可を得た上でレコーディングに臨んだ。ところが、当時マネージャーも兼ねていたひばりの母がこれを断固拒否。結局プレスも終え、ジャケットまで刷り上がっていたレコードは直前で発売中止せざるを得なくなり、製作費用を全てコロムビアが負担することで落ち着いたという、誰も得をしなかった残念な事件である。「霧のかなたに」「恋のハレルヤ」「好きなのに 好きなのに」と共にEPに収録される予定だった「真赤な太陽」は、実兄・三木たかし(この時は渡辺たかし名義)の作曲による「恋の季節」に差し替えられて発売された。


しかし、波に乗っていた黛はそんな事件は物ともせず、68年が明けての3枚目のシングル「乙女の祈り」を大ヒットさせ、次の「天使の誘惑」ではレコード大賞の栄冠を手にする。共にデビュー曲と同じ、なかにし礼と鈴木邦彦のコンビによる傑作で、疾走感溢れる「乙女の祈り」、ハワイアン・ムードのゆったりとしたアレンジが心地よい「天使の誘惑」は、今風に言うならいずれも掛け値なしの“神曲”である。その後、自身最大のヒットとなる三木たかし作曲の「夕月」を挟んで、69年になってから出された「不思議な太陽」は、タイトルもイントロも曲調も「真赤な太陽」を彷彿させる作品で、ほとぼりが醒めた後のせめてもの抵抗、ある種の禊的な曲であったと推察される。それとても出来のいい作品なのはさすが。その後、70年代はフォノグラム、80年代はCBS・ソニーなどに移籍して活動を続けた彼女であるが、楽曲もビジュアルもやはり東芝時代の活躍ぶりが鮮烈だ。幻となっていた「真赤な太陽」は、美空ひばりがこの世を去って5年後の94年にCDシングルとして正式発売され、27年ぶりに封印が解かれた。改めて聴くとこれがまた実に素晴らしいカヴァーで、まるでもともと彼女のために作られた歌のようにも思える。GSブームの中で抜群の輝きを放った黛ジュンには、歌謡界のビート・ガールNo.1の称号が相応しい。

黛ジュン

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