2016年03月11日

本日3月11日は佐々木勉の命日

執筆者:川瀬泰雄

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もう31年前になるのかと時のたつ早さに驚いている。「川瀬、なんか面白い事やろうぜ」といたずらっぽい笑顔で話しかけてくる勉さんの顔を、多分その時のまま、昨日の出来事のように思い出せる。僕がホリプロのレコード制作部門の東京音楽出版に入社して、すぐに何故か気に入られ意気投合した。時間があれば一緒に麻雀やったり、一緒にギターを持って勉さんの作る曲を横から「そこはこっちのが良くないですか?」と8歳も年長で、すでに何曲もヒット曲を作っている大先輩に向かって、入社したての僕が図々しくも進言したりする。「川瀬、お前天才じゃん」と言いながらそのアイデアを取り入れてくれた。


本名は佐々木勤(つとむ)、1938年12月26日杉並区荻窪生まれ。子供の頃にヴァイオリンを習っていたこともあり音楽の世界には何の抵抗もなく入っていった。成城学園高校在学中にラジオの「素人ジャズのど自慢」に出場。エルヴィス・プレスリーの曲を歌い日本一になる。学校の仲間とCountry Capersを結成して、米軍キャンプを回る。成城大学時代に、小坂一也とワゴンマスターズに加入した。

1961年に大学を卒業すると証券会社に入社。

その後、清原タケシが歌ってビクターから発売された「夜空の星」で作詞・作曲家としてデビュー。

1966年7月1日に、寺尾聰がメンバーとして在籍していたザ・サベージが佐々木勉作詞・作曲のシングル「いつまでもいつまでも」でデビュー。同じ年の9月黒澤明の息子黒澤久雄が結成したフォークグループ、ザ・ブロード・サイド・フォーが「夜空の星」を改題した「星に祈りを」を歌いヒット。カレッジ・フォーク・ソングの作曲家としての地位を確実なものにした。


同じころカレッジ・フォークとして活動していたグループには小室等がピ-ター・ポール&マリーに感銘を受け結成したPPMフォロワーズ、そして解散後に六文銭を結成。

モダン・フォーク・カルテットの一員だったマイク真木のソロデビュー曲「バラが咲いた」が30万枚以上を売り上げる大ヒット。

女優の荒木道子の息子の荒木一郎が「空に星があるように」でビクターからデビューし、これも大ヒット。

1967年には九代目松本幸四郎が六代目市川染五郎の時代、自作の詞・曲による「野バラ咲く路」をヒットさせるなど、すでにヒットを飛ばしていた加山雄三やグループ・サウンドに対抗するようにフォーク・ブームが起こった。

同年1967年にホリ・プロダクションに歌手として所属。後に数10組のアーティストにカヴァーされる名曲「あなたのすべてを」でシンガー・ソング・ライターとしてデビュー。

1973年に1週間の旅行のつもりでアメリカへ行ったが9か月間の滞在となる。


帰国後、東京音楽出版にプロデューサーとして入社。作曲家としての活動がメインの仕事だった。

同僚のプロデューサー同志となってからはお互いのスタジオや出張などが無い時は常に行動を共にしていた。

勉さんの冗談好きの一例を書いてみる。ある時元モップスのメンバーでプロデューサーとして同僚だった鈴木ヒロミツの実弟・鈴木ミキハル君が東芝レコードでモップスのプロデューサーだった平形忠司氏から1枚の試聴盤を貰ってきた。

出社直後に佐々木勉、鈴木ミキハルと川瀬の3人で、ロックのサウンドに語り調で歌われるその曲に打ちのめされた。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの1975年3月リリースされた「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」だった。ヨーコという女性を探し歩く内容のドラマも面白かった。

曲の感想を話している時、僕が冗談で言った「あたしのこと探してるって」といった一言に勉さんがすぐに「川瀬、アンサーソング作ろう!」。その場で3人がアイデアを出し合い詞を完成させた。夕方からの赤坂スタジオを予約してスタジオで基本のリズムをレコーディング。急きょ声優の女性を呼んだ。スタジオで作ったB面用の曲も完成させ即レコーディング。すべての録音が終了したのは翌朝の6時頃だった。企画から完成まで約20時間の突貫工事。こうなったら一番早く発売できるレコード会社を探そうということになった。RCAレコードが話に乗ってくれて、ジャケットを写真じゃなくてイラストで良ければ2週間で発売できるとのこと。そして本家より遅れること2か月ちょっとでの発売となったのが「あの人捜してたって?わたしがヨーコよ」で始まる、「帰って来た港のヨーコ」。バンドは全員商社マンだというでっち上げの履歴を作り、当時、世界中で活躍する日本の商社を揶揄したエコノミック・アニマルと英国ロックバンドのアニマルズを合成したエコノミック・アニマルズ。これがそこそこ売れてしまったのである。

作曲や歌唱による印税はすべて会社にストックして自分たちの担当アーティストのプロモーションに使おうということで、ラジオ関東(現ラジオニッポン)の深夜30分の枠を1年間購入し佐々木、鈴木、川瀬の3人が商社マンということで音楽番組のディスクジョッキーをした。柳の下を狙ったエコノミック・アニマルズの第2弾は当時時効寸前の大事件だった3億円事件を取り上げ、犯人が歌ったという設定の「消えた3億円」。これは見事に外れた。


佐々木勉の音楽プロデューサーとしての最初の仕事は、第1回ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバンで優勝、芸能界入りした榊原郁恵の1977年(昭和52年)1月1日発売のシングルからスタート。作詞は笠間ジュン(佐々木夫人の淳子さん)。

この淳子さんとの出会いも勉さんならではだった。ある仕事の初顔合わせでのこと。7~8人の会議の出席者の中に二人の美人女性が出席していた。勉さんは僕の耳元で「川瀬、あの右側の子に手を出すなよ」、「何でですか?」と聞き返すと「俺、あの子と結婚するから」という返事。勿論、勉さんも初対面である。それが佐々木夫人の淳子さんである。本当に結婚にたどり着いてしまった。どこまでが冗談で、どこからが真剣なのか、境目が判りにくい人だった。つい最近淳子さんに、この話をすると淳子さんご本人も全く知らなかった。


その後ホリ・グループ内に作家事務所のピラミッドを作り、作家活動に専念する。1969年にパープル・シャドウズでリリースした「別れても好きな人」を1979年にカヴァーしたロス・インディオス&シルヴィアのバージョンがヒット。

1982年には、出来たばかりの曲を生ギターで「こんなの作ったけど聴いてくれ」と聴かせてくれたヒロシ&キーボーの「3年目の浮気」がオリコン1位を3週連続で獲得というこれまた大ヒット。勉さんのしてやったり的な嬉しさいっぱいの顔を思い出す。

ジャンルを超えた名曲をたくさん生み出した。


1985年3月11日仕事場で急性肝不全のため急逝。享年47歳の若さだった。

ここで紹介する2枚組CD「Ben Sasaki Anthology あなたのすべてを」の1枚目にはブロード・サイド・フォーの「星に祈りを」、サベージの「いつまでもいつまでも」から始まってヴィレッジ・シンガーズ、守屋浩、和田アキ子、山口百恵、榊原郁恵、荒木由美子、ヒロシ&キーボー、堀ちえみ、美川憲一など佐々木勉作品22曲プラスCM楽曲9曲の全31曲が収録。

2枚目は1枚丸ごと名曲「あなたのすべてを」。

カヴァーした美空ひばりを筆頭に尾崎紀世彦、テレサ・テン、布施明、グラシェラ・スサーナ、フランク永井、伊東ゆかりなどそうそうたるメンバーのカヴァーが19曲収録されている。同じ曲がアーティストのそれぞれの持ち味が生かされたアレンジで、こうも変わるのかという比較ができる面白さもある。



ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち

「あなたのすべてを」のアーティストを聴き比べてもわかるように、音楽制作にはアレンジの重要性というものがあります。3月4日に発売された川瀬泰雄、吉田格、梶田昌史、田渕浩久で共同執筆した『ニッポンの編曲家 (歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち)』も是非、読んでいただきたい本が出来上がったと自負しています。 

コンピューターによる打ち込みの音楽が全盛になる直前、レコーディングが生演奏で録音され、一番音楽が充実していた時代70年代から80年代、それぞれのアレンジャーがどんなミュージシャンを選んで仕事をしてきたのか、じっくり話しながらのインタビューで構成してあります。まさに「日本のレッキング・クルー」を取り上げた本が出来上がりました。

佐々木勉アンソロジー あなたのすべてを

ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち 単行本 – 2016/3/4 川瀬泰雄 (著), 吉田格 (著), 梶田昌史 (著), 田渕浩久 (著)

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