2018年06月01日
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2018年06月01日
本日6月1日はロン・ウッドの誕生日である。
ストーンズのギタリスト、ロン・ウッドの一般的なイメージは、いつも明るく元気で朗らかな感じだろうか。お調子者で、お人好しで、酒好きでヘビースモーカー、やや天衣無縫で不器用なギタリストというイメージだろうか。
ギターの腕前は、天才的にうまいと言うわけではなく、ワイルドでファンキーな二流のギタリストという印象かもしれない。ところが僕にはちょっと違った、言わば優柔不断な「孤独な英国的ニヒリスト」に見える時がある。
祖先はなんでも英国の水上(運搬労働)生活者だったという。自身では、先祖は海賊だったなどと言った事もある。一見、自由奔放なアメリカ人に見えるが、生粋のアングロ・サクソン系の英国人である。最初に参加したバンドは、The Birds(バーズ/アメリカのバンドとは違う)で、その後ザ・クリエーション、ジェフ・ベック・グループ、スモール・フェイセズ、フェイセズ、そしてストーンズといろいろなバンドを渡り歩いた。まるでイギリスのロック出世街道をまっしぐらに上り詰めた感がある。この経歴が、どこか「調子のいい奴」という印象を生み出してしまうのかもしれない。
1974年2月19日、ロッド・スチュワート&ザ・フェイセズとして初来日し、武道館公演を行なった時、初めてロン・ウッドを生で見た。その時の印象は確かに、陽気で底抜けに明るく元気なイメージであった。ロニーが26歳のときである。そんな彼が、翌年ストーンズに加入すると発表されると、ストーンズ・ファンの間に拒否反応みたいな現象がわき起こり、しまいには「ロン・ウッドが加入したら、ストーンズ・ファンを辞める」というような輩が現れたのである。つまり、当時のストーンズのイメージとロニーの陽気なイメージは、水と油、まったく対極的だと思われていた。それは初期のストーンズの持っていた大衆的イメージ、ある種の反抗的で暗鬱なイメージからほど遠いような感じがしたからだったようだ。
1975年当時には、ロン・ウッドはあくまでストーンズの「臨時ギタリスト」として雇われ、暫定的な採用だと思われていた。バンドの創始者であるブライアン・ジョーンズの持っていた強烈な個性とマルチな器楽演奏能力や、また華麗なギタープレイを仏像のように微動だにせず披露したミック・テイラーと比べれば、あまりにも陽気でいい加減な感じが否めなかったし、ギター演奏も稚拙に聴こえて、なぜか「チャイニーズ・ギター」などと言われた。
しかしながら、75年の全米公演や76年発売のアルバム『ブラック&ブルー』以降、徐々にファンは馴染んできたのか、ロニーに対する認知度が上がり始め、78年の『サム・ガールズ』が発売される頃には、ファンの間にすっかりストーンズの固定的メンバーとして認知され定着していった。それはロニーの才能や存在を積極的に組み入れようとするミックやキースの、つまりバンド側の積極的な意図も大きかったのではないかと思う。とりわけアルバム『ブラック&ブルー』のジャケットに大々的にロニーの顔を入れたり、音楽的な位相においても、彼の楽曲アイデアを採用していった事でも了解出来る。それは反面、ストーンズの持っていた既存のバンド・イメージを覆す危険を孕んでいたが、ライヴ演奏活動を根本に据えていたストーンズにとっては予想外の音楽的変化、あるいは方向転換が起きたのだった。ある意味でストーンズはこの時、ロン・ウッドによって蘇生したと言えよう。
何よりもライヴにおいて「ステージ映え」するロニーの動的演奏スタイルは、ストーンズに明白な化学反応をおこさせた。一般にバンド活動を長期にわたり維持する事は、予想外に困難を極めるのは、他の有名無名バンドを見ても充分に了解出来る。どのバンドも、ストーンズのように長続きはしてこなかった。ロニーはストーンズにとって言わば「触媒的存在」なのだと思われる。バンドの内部の人間関係に、緩衝剤的な役割も果たしていると想像出来る。日常の中にユーモアやジョークを取り入れて、潤滑剤のようにも機能するタイプのキャラクターなのである。その存在の重要性に気づくには随分時間がかかった。
ロニーは単なるギタリストというには、あまりにも多くの才能を持っている。ジェフ・ベック・グループ在籍時はベース担当であったり、1974年に発表したソロ・アルバム『俺と仲間』を皮切りに現在まですでに7枚のソロ作品を発表し、マルチな音楽的才能を発揮してきた。作詞・作曲の才能だったり、味のあるディープなヴォーカルを披露している。それから忘れてはならない絵画の才能である。これまで沢山の絵画を制作し、展示即売会を世界各地で開催して来た。これらによって、ロン・ウッドをミュージシャンと言うよりむしろ「アーティスト(芸術家)」として高く評価するファンも多い。
1988年3月にロニーは、ボ・ディドリーと一緒に「ガンスリンガー・ツアー」で来日した。M&Iの一瀬社長の好意もあり、僕は札幌公演に随行した。千歳空港から札幌市内までバンドと同じ中型バスに乗り、楽しいひとときをロニー御一行と過ごした。その時の細かい思い出はここには書ききれないのだが、その時にオフ・ステージでロニーが見せた周囲への繊細な、温かい気遣いは、とても有名ロック・スターらしからぬものだった。それは例えば、皆で食事する時には、自分の事はさておいて仲間やスタッフを優先させて飲み物や食べ物を自ら配ってみたり、ぼんやり空を見つめる男がいると「悩みでもあるのか?」と聞いたり、皆を笑わせようとしたり、ともかく病的と思えるほど、過剰なまでに周囲に気遣うのだった。ライヴを終えて、疲れている筈なのにホテルに帰って来ても、まだスタッフや我々に問いかけてくるのだった。
「今夜のショーは面白かったか? どの曲が楽しかった? 一杯やろうぜ。」
札幌で同じホテルに泊まったのだが、深夜になってもギネスをちびちび飲みながら、廊下をうろつき、誰彼となく話しかけ、なかなか床につく事はなかった。しまいにはロビーに行きサインを貰おうと待ち構えている数人のファンを自室に呼び入れて、ニコニコしてサインに応じたり写真を撮ったりしていた。こちらの方が疲労困憊して先に床についてしまったほどだ。
また、1993年にアルバム『スライド・オン・ディス・ツアー』で来日した時には、新宿のヒルトン・ホテルに宿泊。ホテルのバーで同時期に来日していたガンズ&ローゼズのスラッシュが「バンドを辞めたい」と言って泣いて悩んでいるのを、当時の奥さんのジョーと一緒になって「その内いいことがあるからさ、ね、がんばって」と説得し慰めていた光景が今でも忘れられない。
またちょっと気になったのが、当時サインに必ず「ローリング・ストーンズ,ロニー・ウッド」と書く事だった。誰もが彼がストーンズのメンバーだと知っているにもかかわらず、どのサインにも必ず書いているのだった。それは後年知ったのだが、1992年までストーンズとの契約上は、正式メンバーではなかったと聞かされた時、「なるほど、そういうことだったのか」と納得したものだった。現在では勿論「ローリング・ストーンズ」とは書かない。
ここ10年を振り返っても、ロニーの身辺は波瀾万丈だった。ビガー・バン・ツアーが終了してから、アルコール依存症からリハビリに通い禁酒、長年連れ添った妻ジョーと別れ、19歳のロシア人女性エカテリーナとの恋愛そして別離、そして驚くべき事に劇場プロデューサー、サニー・ハンフリーズ(年齢差が31歳)と再婚し、一昨年アリスとグレースの双子が誕生した。これで子供は6人!
昨年は春に肺がん手術を受けたとの報道に驚いた。そして、ついにトレードマークの煙草をやめたと言う。ロン・ウッド、信じられない人生!
「ブラック&ブルー」ジャケット撮影協力:中村俊夫
≪著者略歴≫
池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職 。
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