2018年11月14日
スポンサーリンク
2018年11月14日
大滝詠一は、カッコいいシティ・ポップス『ロング・バケイション』でブレイクしたが、一方でお笑い的な楽曲「ノベルティ・ソング」も沢山残した。そのルーツはファーストアルバムに入っている、はっぴいえんど時代に作った「びんぼう」だ。
いくらがんばってみても、判で押したように僕はビンボー、とハジけコロげるように、最新のニュー・ソウル・リズムに乗って歌う鋭い歌声に僕らはシビれた。「12月の雨の日」の青ざめた歌声とは全く別の魅力だった。そう、大滝のノベルティは実験的サウンドと一緒だった。
その後ノベルティ・ソング中心の『ナイアガラ・ムーン』など、沢山の面白いレコードを出した。『ナイアガラ・ムーン』が様々な新しいリズムやメロディーによるサウンドの実験場だったことはいうまでもない。そしてブレイク後のプロデュース作「うなずきマーチ」はちょっと凄かった。
1980年代のMANZAIブームに乗った人気漫才コンビトップ3組、紳助・竜介、ツービート、B&Bのうなずき役によって結成されたうなずきトリオによって歌われた曲。1981年11月14日は、その「うなずきマーチ」がレコーディングされた日である。
それらが出ていた番組『オレたちひょうきん族』を大滝は見ていた。
「歌はヘタなんだけど勢いを感じたのね」
「話が来た段階で、こちらの態勢はもうできてたね。打ち合わせのときには、もうイントロはできてたんだよ」
大滝は同番組で、うなずきトリオの3人が細野晴臣の手によるテクノ歌謡曲「ハイスクールララバイ」を歌うのを見ていたという。メロディーがどこにいくかわからない彼らの歌を見て、これしかない、と思ったという。YMOテクノ・サウンドを歌謡曲に適用した細野の同曲には感じ入っていたと思われる。
結果、大滝史上でも1,2を争うサウンド・コラージュ曲ができあがった。イントロ、ファンファーレに続き「ナナナ ウナウナウナナ(ズキ)」とおかしな3人のコーラス、凝ったブレイクの後、今日も元気だ首すじ軽い~とビートきよしの絶妙にはずした歌が披露される。手塩にかけたこのうなじ~という部分ではメロディ・ラインがバックとズレという凝った仕掛けを交えながら、サビも、西へ行ったらうなずいて~、から、よしなさい・よしなさいという定例ツッコミなどをハサミながら、曲調は10秒待たずにクルクル変わっていく。凝ったエフェクトも沢山使われている。まさに前例のないミラクルなお笑いソング。クレイジーキャッツの大ファンであった大滝の面目躍如であり、リアルタイムのお笑い最前線への殴り込みであった。
それにしてもこのサウンド・コラージュともいうべき凝りまくった編曲はファンには驚きであった。「FUN×4」といった曲に片鱗は見えていたが、ここまで変態的に要素をブチこむとは?と思った人も多かったと思う。
しかし70年代に大滝をずっと追っていた者なら、思い当たるレコードがある。
それは1979年7月の「ビックリハウス音頭」(キング)だ。78年11月発売『レッツ・オンド・アゲン』という音頭アルバムの延長線上に制作された盤。すでに大滝は「長い休暇=ロング・バケイション」いわゆる「暗黒期」に入っていた時期。この曲はビックリハウサーと呼ばれる熱狂的な投稿マニアを配し、一時代を創った雑誌「ビックリハウス」の企画で作られた。歌は「デーボ」という読者3人組。もちろんニューウェイヴバンド、ディーヴォのオマージュである。
あなた寒しくないですか~?という「津軽海峡冬景色」ままで始まり、それじゃダメよ~という悲劇調に転換、はだかになろう、寒くても~とカントリー調になったと思ったらはだか音頭だ、えびぞるホイホイ、とノンキな音頭になるというムチャクチャな構成。レッド・ツェッペリン「胸いっぱいの愛を」をはじめとして、ありとあらゆるサウンド・コラージュが詰め込まれた珍品中の珍品で、5分35秒という壮大な長さである。これを大滝に聴かされた坂本龍一は即「参りました」とえびぞったという。
ビックリハウス誌上の流行語「えびぞる」「ムキンポ」「びでんぶ」等が散りばめられた壮絶な歌詞は「なにゆえ草也」という訳ありげなペンネームの人。作曲編曲は「大滝詠一」名義だ。(「うなずきマーチ」は「大瀧詠一作詞作曲、多羅尾伴内(大滝の変名)編曲)
透徹したシティ・ポップス、青春のキラめきを映すメロディーを生み出す一方で、こうしてアバンギャルドなノベルティ・ソングを作り出す大滝は、ポップスの歴史を包括して捉えていた。5,60年代ポップスに内在する笑いあり涙ありのエネルギー、その万華鏡のようなポップスの魅力を、現代に生かすために脱構築する実験を生涯続けた。その才能の最大のエッジがこうして「うなずきマーチ」「ビックリハウス音頭」のようなお笑いソングに結晶しているのだ。
うなずきトリオ「うなずきマーチ」イモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」デーボ「ビックリハウス音頭」ジャケット撮影協力:サエキけんぞう&鈴木啓之
≪著者略歴≫
サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。『未来はパール』など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2010年、ハルメンズ30周年『21世紀さんsingsハルメンズ』『初音ミクsingsハルメンズ』ほか計5作品を同時発表。2016年パール兄弟デビュー30周年記念ライブ、ライブ盤制作。ハルメンズX『35世紀』(ビクター)2017年10月、「ジョリッツ登場」(ハルメンズの弟バンド)リリース。中村俊夫との共著『エッジィな男ムッシュかまやつ』(リットー)を上梓。2018年4月パール兄弟新譜『馬のように』、11月ジョリッツ2nd『ジョリッツ暴発』リリース。12月5日新宿ロフトにてジョリッツ発売記念ライブ 。
植木等の付き人を務めていた小松政夫が、いつもの様に植木を乗せて車を運転していたら、「お前はもうオレのところに来なくていい」と言われ、一瞬クビなのかと思って呆然としていたら、「会社に言っておいたか...
本日8月16日は“女子大生の日”である。日本で初めての女子大生が誕生したことに由来するという。女子大生と言えば、80年代に女子大生ブームを牽引した『オールナイトフジ』というフジテレビのバラエティ...
1981年、千代の富士が横綱になり、なめ猫がブームになったこの年に『オレたちひょうきん族』は始まった。EPOの「DOWN TOWN」をはじめとする洒落たエンディングから番組内で生まれた出演者たち...
フジテレビ創成期の歌番組『ザ・ヒットパレード』で“踊る指揮者”として注目を集めたスマイリー小原。日本人離れした濃い顔立ち、独特なパフォーマンスで人気者となった。バンドのスカイライナーズを率いて、...
1970年代に日本のポップ・シーンを彩った忘れ難き洋楽ヒットを代表するものとして、ダニエル・ブーンの「ビューティフル・サンデー」は外せない。76年3月から総合シングル・セールス・ランキングで15...
『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』をはじめ、昭和のテレビ番組史を彩った名番組の数々で司会を務めたほか、作家、評論家、政治家、実業家などさまざまな顔を持つマルチタレントのハ...
今や“世界のキタノ”としてその名を轟かせるビートたけしこと北野武。本日1月18日の誕生日を迎えて71歳となる。映画監督や一部のテレビ番組出演時など、アカデミックな場では北野武、そして芸人としては...
1984年の本日1月2日を皮切りに、6週に渡ってオリコンチャート1位を独走したのは、わらべ「もしも明日が…。」だ。トータルで97万枚というセールスを叩き出し、80年代の女性歌手もしくはグループに...
大瀧詠一君が亡くなってもう4年になる。亡くなる少し前に大瀧君はNHK-FMで放送していた『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』の次の回の為の資料集めをしていて、リバティー・レコードでA&Rとプロモ...
「ゴー・ゴー・ナイアガラ」は1975年6月9日月曜日の夜中、というより10日火曜日の朝午前3時にラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)で始まった。衝撃的な時間。なかなか聴けるものではない。真っ...
1973年、日本のロックは(キャロルがちょっとでてきたとはいえ)国民的にはなかった。フォークは歌謡曲みたいだった。歌謡曲は「田舎の代名詞」であり、日本を覆う巨大なバリアーで知性の敵だった。その中...
大滝詠一が亡くなってから早くも2年が経過した。ディープなファンにとっては大滝の死はデ・ジャ・ビュのような印象がある。そう、また死んだ? また生まれ変わってくれるのではないか? と。キリストは十字...
1975年6月から関東ローカルのラジオ関東で放送され、伝説となったラジオ番組「ゴーゴー・ナイアガラ」。それまでマニアにとっては雲の上だった大滝詠一がリスナーの元に降りてきてハガキを読み、胸を熱く...