2015年12月30日
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2015年12月30日
大滝詠一が亡くなってから早くも2年が経過した。ディープなファンにとっては大滝の死はデ・ジャ・ビュのような印象がある。そう、また死んだ? また生まれ変わってくれるのではないか? と。キリストは十字架に付けられ死んだが、3日後に生まれ変わった。そう、大滝詠一は2013年12月30日の前に1度死んだ。
一度目の死は、1979年。ニューミュージック・マガジン2月増刊号「死者のカタログ~ミュージシャンの死とその時代」に「死んだ人より、生きていく人の方が大切だ」と、ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンといった死者が扱われている特集号に、生きている死者代表として参加したのだ。
この記事は現在読むことが難しくなっているのでご存じない方も多いとは思うが、大滝詠一を深く知る上では極めて重要。
「All About Niagara」によれば、エッセイということになっているが、恐らく聞き書きで書かれている。自分がその時陥っていた状況について、呪詛のような文言が続くが、なんといっても筆者が驚いたのは「僕の母親の面倒をいったい誰が見るの?」という発言で、さすがのファンも驚くと共に笑い転げてしまったのを覚えている。
カリスマ・スターに対して様々に思い入れることはあるが、その親の面倒についてまで思い入れる人はなかなかいないのでは? これは大滝流のジョークなのであろうが、しかし文全体は沈痛なムードに包まれていた。その前年78年11月にはピーター・バラカンが最大のフェイヴァリットにあげる問題作「LET'S ONDO AGAIN / NIAGARA FALLIN' STARS」が発売される。ナイアガラ音頭に始まる音頭路線を徹底的に突き詰めたこのアルバムは商業的成功を放棄した印象もあった。スタジオを訪れた伊藤銀次は「とうとう大滝さんが気が狂った」と漏らしたという。
90年代以降にNHKラジオ番組「大滝詠一の日本ポップス伝」を聞いた人は、なぜ大滝が音頭に真面目に取り組んだかを理解したと思う。いち早くディスコ・サウンドに注目、76年の「ナイアガラ音頭シングル・バージョン」ではクラヴィネットをいち早くディスコ・サウンド的に取り入れた大滝のこと。さかのぼれば「ナイアガラ・ムーン」の様々なダンス音楽への接近をはじめ、ダンス音楽への造詣が深い。76年に始まったディスコ音楽の隆盛は、77,8年と留まるところを知らなかった。ドン、ドンというキックの仕掛けがポップスを変えていった。大滝が慣れ親しんだロックンロール、そしてそれに続くファンクまではともかく、この単調にポップス構造を支配していく四ツ打ちディスコ・サウンドに対する彼の違和感はあまりにも大きかったのではないか?
それに対する対抗心が日本のルーツリズムへの希求となり「LET'S ONDO AGAIN」を生んだと思う。そしてそれを自らのいったんの墓碑としたのである。
趣味趣味音楽と名乗り、伊達酔狂のように振る舞う大滝の音楽に対する覚悟は、一方で命がけだった。自分の好きな洋楽ポップスをどこまで日本人として肉体化できるか? その生体アレルギー反応のギリギリの挑戦が音頭となったのだろう。ドメスティックな冥界をさまよった後にたどり着いた音、それが「A LONG VACATION」のイントロの天界のようなスタジオ・ノイズ群だった。ナイアガラ第二の生が高らかに誕生を告げたのだ。
こうしたプロセスに気づいた方は、大滝がキリストのように何度でも復活することを実感するだろう。
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