2019年03月07日
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2019年03月07日
吉田美奈子(1953-)といえば、ファンクやR&Bの要素を織りこんだ独自の歌唱で知られるシンガーであり、ソングライティングやコーラスワークなどの面でも目映い才能を発揮してきたアーティストである。
1971年に元ブルース・クリエーションのベーシスト、野地義行と“ぱふ”というデュオを結成してシンガーとしてのキャリアを歩み始めた吉田美奈子だが、最初のレコーディングは歌手ではなくフルート奏者としてのもの。大滝詠一の初期の名作「指切り」(『大瀧詠一』1972年)で印象的なフレーズのプレイを聴くことができる。
1973年、キャラメル・ママがサウンド・プロデュースした『扉の冬』をトリオ・ショーボート・レーベルから発表してデビュー、荒井由実や井上陽水などとともに日本におけるシンガー&ソングライター・ブームの火付け役となった。
当時の吉田美奈子は、はっぴいえんど系のプロダクション「風都市」に属していたが、風都市消滅後の1975年、荒井由実やハイ・ファイ・セットの原盤を製作していた村井邦彦のアルファ&アソシエイツに移籍、村井のプロデュースの下、『MINAKO』(RCA/RVC)で再起動をはかる(1975年10月)。この作品は、キャラメル・ママ改めティン・パン・アレー、大滝詠一、山下達郎のシュガー・ベイブ、荒井由実などの面々がバックアップした佳作だが、翌1976年3月には日本ロック&ポップス史上に残る名盤を発表する。『フラッパー』がそれである。ティンパン系ミュージシャンとナイアガラ系ミュージシャンが総出でサポートしたこのアルバムこそ、ポップかつファンキーなシンガーとしての吉田美奈子の個性を確立した作品だ。
『フラッパー』のプロモーションのため、アルファ&アソシエイツは新宿・紀伊国屋ホールを3月1日から7日間にわたって借り切り、「MINAKO'S WEEK」と題したイベントを打つ。アルファは前年の4月、同じ紀伊国屋ホールで「ハイ・ファイ・セット+荒井由実」 の公演を8日間(6日から13日)にわたり催行して成功を収めていたが、「MINAKO'S WEEK」はその成功にあやかろうとしたイベントだった。
「MINAKO'S WEEK」には日替わりのゲストが出演している。3月1日小坂忠、3月2日鈴木慶一、3月3日南佳孝、3月4日山下達郎、3月5日大貫妙子、3月6日鈴木茂、3月7日大滝詠一という、今思えばとんでもなく豪華なラインナップだった。なお、ネットには「9日間連続ライブ」といった情報もあるが、ぼくの記憶では7日間である。MINAKO'S「WEEK」である以上、常識的に考えても7日間と見るのが適切だ。
7日間のうち、ぼくが観たのは3月7日の大滝詠一の出演日である。当時は学生で金欠だから1つ観るだけで精一杯だった。アルバム収録の新曲などを歌った後、吉田美奈子に促されて大滝詠一が登場、「ディープ・パープル」「初恋の並木道」「イチゴの片想い」の3曲をデュエットで披露している。
このとき山下達郎も飛び入りでステージに上がり、まもなく解散するシュガー・ベイブのラスト・ライブ(3月31日、4月1日 荻窪ロフト)や発売間近の『ナイアガラ・トライアングル Vol.1』(3月25日)とその発売記念のライブ(3月29日 ABCホール)を告知している。ちなみに、この時期の山下達郎は吉田美奈子(作詞)との共作になる名曲を多数生みだしている。
当時のぼくは、大滝詠一のラジオ番組「ゴー!ゴー!ナイアガラ」に触発されて聴き始めた1950〜60年代のアメリカン・ポップスのビギナーで、この日のデュエット3曲のうち、既知の曲は中尾ミエのカバー(訳詞・1963年)でたまたま知っていた「イチゴの片想い」だけだった。その原題が“Tonight You Belong To Me”であることも、1920年代に創られた曲であることも、1950年代にフランキー・レインやペイシェンス&プルーデンス(姉妹デュオ)のカバーが全米でヒットしたこともまったく知らなかった。
「ディープ・パープル」(原題“Deep Purple”)は未知の曲で、ブリティッシュ・ハード・ロックの雄、ディープ・パープルのネーミングがこれに由来することすら知らなかった。この曲は1930年代に遡るアメリカン・ポップスのスタンダードで、1963年に全米ナンバーワンになったニノ・テンポとエイプリル・スティーヴンスによるカバーが大滝=吉田ヴァージョンの元歌になっていることもだいぶ後になってから知る有様だった。
ボビー・ダーリンの1962年のヒット曲「初恋の並木道」(原題“Things”)もこの日初めて聴いた曲だ。ボビー・ダーリンの名前は辛うじて知っていたが、彼の曲は「ビヨンド・ザ・シー」と「マック・ザ・ナイフ」しか聴いたことはなく、ボビーがアメリカン・ポップスの「工場」とでもいうべき、ニューヨークのブリル・ビルディング(ティン・パン・アレー)に出入りする作家だったことも、1950〜60年代に数多くのR&Bをリリースしていたアトランティックに所属するシンガーだったこともまだ知らなかった。
振り返れば、ナイアガラ・レーベルを興してから大滝詠一自身がアメリカン・ポップスのカバーを人前で歌う機会は数えるほどしかなかった。つまり、この日のデュエットはきわめてレアな出来事だったのである。ましてティン・パン・アレーがツアーをする際のファンキーな歌姫だった吉田美奈子と一緒にアメリカン・ポップスのカバー作をデュエットするとは、まるで想像もしていなかった。大滝詠一がゲスト出演すると聞き、『きっと「夢で逢えたら」を歌うときに出てきて、大滝自らコーラスをつけるにちがいない』程度のことしか考えていなかったのである。予想は見事に裏切られ、大滝詠一と吉田美奈子は、当時の日本のシンガーとしては異例の、50〜60年代アメリカン・ポップスの意欲的なカバーに挑んで、ぼくたちにその時代のアメリカン・ポップスの楽しさとヘリテージとしての奥行きの深さをあらためて教えてくれたのである。
大滝詠一にとってもこの日のステージは大きな意義があったにちがいない。大滝は、幻の名盤といわれるシリア・ポール『夢で逢えたら』を翌77年にプロデュースしているが、収録曲はこの日歌った“Tonight You Belong To Me”を始め、アメリカン・ポップスのカバーが中心である(全11曲中7曲)。吉田美奈子とのこの日のデュエットの成功がひとつのきっかけとなって、アメリカン・ポップスのカバー・アルバムを創ってみたいという大滝の思いが膨み、シリア・ポール『夢で逢えたら』に結実したのではないかと思う。
大滝詠一と吉田美奈子との関係にはギクシャクしたところもあったと伝えられているが、名曲「指切り」から始まって、「わたし」(『MINAKO』収録)、「夢で逢えたら」(『フラッパー』収録)、そしてこの日のデュエットと、2人の才気の「結晶」がポップス史に刻んだ記憶は、これからも末永く語り継がれることになるだろう。
≪著者略歴≫
篠原章(しのはら・あきら):批評.COM主宰・評論家。1956年生まれ。主著に『J-ROCKベスト123』(講談社・1996年)『日本ロック雑誌クロニクル』(太田出版・2004年)、主な共著書に『日本ロック大系』(白夜書房・1990年)『はっぴいな日々』(ミュージック・マガジン社・2000年)など。沖縄の社会と文化に関する著作も多い。
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