2018年11月01日
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2018年11月01日
70歳を迎えても精力的に開催中のコンサートツアーはドタキャン大騒動も巻き起こしましたが、古希記念でもライヴの内容は決して回顧的なものではないので、代わりに過去を振り返ってみるならば、ジュリー史で最も重要なのは1971年ではないでしょうか。
すでに1967年にザ・タイガースの一員としてデビューして一時代を築いており、1969年にはソロ・アルバム『Julie』をリリースしていたにしても、本人としては独立を前提としたものでは無かったはず。
もちろん所属する渡辺プロ側は将来のソロ歌手像を想定していたに違いないが、あくまで本人はタイガースの存続にこだわり、1971年1月での解散が決定しても、ソロ活動には難色を示していたという。そうしてテンプターズ、スパイダースとの合体であるPYGが同年4月にデビューしたのだったが、少なくとも現状維持のはずが、各グループのファンの反目も招いて、早々に立ち行かなくなってしまった。
その結果、ついに本人もソロ歌手の選択をせざるを得なくなり、用意された曲が11月1日発売の「君をのせて」。
作詞・岩谷時子、作曲・宮川泰、編曲・青木望と、ロック系とは別世界の布陣だったが、これは誠に名曲ではありました。今聴いてもジュリーの歌唱は素晴らしい。詞も曲も歌謡曲臭さは微塵も無いし、クライマックスで生ギターのストロークがフル・オーケストラと拮抗するアレンジにはシビれます。
とはいえ、当時の私の第一印象は「こりゃ、布施明だー」
オリコンでは最高23位に留まり、たまたま当時見たTVの公開形式の歌謡番組では、ステージ上にズラリと並んだヒット歌手の中で確かジュリーは中心部からは外れた新人・南沙織の、さらに外側に立っていた記憶が…。
ジュリーと布施の2人を擁していた渡辺プロの思惑はどうだったのだろうか?
布施のデビューはジュリーより2年早くても、歳は半年ほど上なだけ。デビュー曲「君に涙とほほえみを」はイタリアン・ポップスのカヴァーで、嗜好は洋楽系、歌唱力は文句無し、NHK紅白歌合戦にも4年連続で出場中だったが、グループサウンズの時代にはヒット・チャート的に目覚ましいものはなく、この前年1970年暮れの紅白歌合戦でも印象的だった代表作「愛は不死鳥」もオリコンでは意外にも低くて最高26位。それでも「君をのせて」の翌月に発売された「何故」は最高12位まで上がって意地を示した。
で、布施の作曲家と言えば平尾昌晃。「愛は不死鳥」も「何故」も平尾作品。さらに、この1971年の4月に発売されていた同じ渡辺プロの新人・小柳ルミ子のオリコン1位、ミリオンセラーとなった「わたしの城下町」も平尾が手掛けたもの。
さて、以下は私の勝手な妄想ですが、渡辺プロ側はジュリーの次のシングルをポップス系ヒットメーカーの平尾先生で、と考えたのではないだろうか。実際にも「わたしの城下町」のコンビである安井かずみ作詞、平尾作曲の「あなただけでいい」が、加瀬邦彦作曲の「許されない愛」の次にリリースされたが、この流れは当時から何だか変だな~と感じられたんですよね。
実は平尾には「君をのせて」の次作としてオファーされていたのに、12月発売のアルバム『Julie II』に含まれていた曲、当時としては尖った作風だが決して布施明の後追いじゃない「許されない愛」が急速にシングル候補に浮上。会社内部で何らかのバトルがあったが故にシングル発売は翌1972年3月と結構遅れたのかもしれないが、これこそ起死回生の1作となる。
で、浮いた形の「あなただけでいい」は「許されない愛」と同じ東海林修による同傾向のロック調アレンジが施されて次にリリースされた、ということだったのかも…。
沢田研二「君をのせて」「あなただけでいい」「許されない愛」布施明「愛は不死鳥」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
小野善太郎(おの・ぜんたろう):高校生の時に映画『イージー・ライダー』と出逢って多大な影響を受け、大学卒業後オートバイ会社に就職。その後、映画館「大井武蔵野館」支配人を閉館まで務める。現在は中古レコード店「えとせとらレコード」店主。 著書に『橋幸夫歌謡魂』(橋幸夫と共著)、『日本カルト映画全集 夢野久作の少女地獄』(小沼勝監督らと共著)がある。
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