2019年05月07日
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2019年05月07日
いきなり、山下達郎の、強烈なと言ってもいいコーラスから始まる。曲は、「もう一度」、それが、竹内まりやのアルバム『VARIETY』の幕開けだった。ここでの彼のコーラス、また、音の厚みをともないながらの曲の展開というか、アレンジは圧巻だった。それもこれも、久々に活動を再開した竹内まりやを力づけ、それを祝う、彼なりのやりかただったのかもしれないなあと、最近、ふとそんな気がしたりもする。
ともあれ、『VARIETY』は、1984年、竹内まりやが、アイドル時代に別れを告げ、2年半の休養を経て完成させたアルバムだ。手元の記録によれば、同年4月25日の発売とあり、5月7日には、オリコン・チャートで1位に輝いている。休養の間にRCAレコード時代のベスト・アルバム『Viva Mariya』があるが、オリジナル・アルバムとしては、1981年の『Portrait』以来の新作だった。
アルバムを振り返り、彼女は、初のフォト&エッセイ集『インプレッションズ』の中でこう語っている。「本当の意味で自分のデビューと呼べるレコードになったような気がする」と。また、「やりたい放題わがままを通せたし、レコーディング・セッションで自分自身がピアノやオルガンを弾いたのも初めてだった」とも、「音楽ってこんなに楽しかったんだって、まるで大学のアマチュア時代に戻ったようなときめきがよみがえった」とも。
実際、RCAレコードを離れ、山下と同じムーン・レコードからの第1弾で、山下との結婚や休養を経ての復帰第1作だった。彼女の作詞作曲による作品でアルバム1枚を構成したのも初めてだった。当初、プロデューサーの山下は、それまで同様に、彼女の作品以外にも、誰か他の人に依頼することを考えていたらしいが、彼女が書き溜めた作品を聴いて、考えを改めたという。
そしてなによりも、大好きな音楽を、信頼する人たちに囲まれて、好きなように音楽が作れて、歌えるようになったことが彼女にはいちばんだった。スタジオでは、山下をはじめとするミュージシャンたちと、音楽について熱く話しこんだり、とりたてて意味のないお喋りに、コロコロと笑い声を弾ませたりしたことだろう。
山下達郎が彼女のアルバムを1枚通じてプロデュースするのも、これが初めてだった。現在のような、公私ともに鉄壁なチームワークは、ここから始まったわけである。「もう一度」に限らず、山下の気合の入れ方も違ったのかもしれない。全曲アレンジ、コーラスはもちろんだが、「One Night Stand」でのロビー・ロバートソンばりのギターの他にも、ハモンド・オルガン、エレキシタール、シンセサイザーまで、ありとあらゆる楽器を演奏し、犬の鳴き声まで真似するほどだった。
もちろん、最大の聴きどころは、竹内まりやの作品であり、歌声にあった。久しぶりにアルバムを聴いたせいか、その歌声に、当然、若々しさが感じられたが、それ以上に驚いたことがある。それは、どんな言葉であろうと、その言葉に託した思いを分け隔てなく丁寧に注いで歌っていたことだ。もともと、女性にしては低くて強い歌声のせいか、遠くに届ける天性のものを持っている人だが、それに加えて、言葉たちが薄っぺらくなく、豊かに表情をつけながらなんとも気持ちよく届いてくるのだ。
「本気でオンリー・ユー(Let's Get Married)」での坂本龍一をはじめとして、大貫妙子、センチメンタル・シティ・ロマンス、杉真理、伊藤銀次、村田和人、松浦善博、青山純、伊藤広規、アーニー・ワッツ等々のミュージシャンたちも申し分ない。ビートルズへの敬意をあらわした「マージービートで唄わせて」や、ザ・バンドへの憧れを託した「One Night Stand」を含めて、その音楽との出会いに胸をときめかせ、彼女の中に芽生え、育っていった音楽への愛情や敬意が、音楽と接する上で忘れてはならない大切なものが、極端に言えばアマチュアっぽさと、プロフェッショナルとしての彼女の創意とがバランスよくまとまっている。しかも、ロックンロールからソウル、ファンク、ボサノヴァまで、派手な曲から地味な曲まで、文字通り、『VARIETY』に富んだ傑作となった。
そう言えば、最近、70年代、80年代の日本のポップスが世界的な評価を受けているらしい。殊に、彼女と、この中の「プラスティック・ラブ」は、シンボリックな形で、インターネットを通じて世界中で親しまれているそうだ。35年前には想像もできなかっただろうし、その背景や分析は詳しい方にお任せするが、このアルバムは、もう一つ、彼女には忘れられない想い出をもたらすことになる。
それは、妊娠、出産だ。そのために、宣伝活動が極端に制限されることになったらしい。それでも、アルバムはかつてないセールスを記録する。結局、これだと信じることを最良の形でやればいい、そうすれば聴いてくれる人たちは必ずいる。「プラスティック・ラブ」にせよ、素晴らしいものをきちんと作ったからこそ、時代が光を当てることを忘れることはあっても、こうやって時が光を引き寄せるということだろう。そういった意味でも、これは、彼女が歌を取り戻し、それが多くの人に歓迎され、激励され、現在に至る希望と勇気を彼女にもたらした1枚ではなかったかと思う。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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