2019年01月02日
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2019年01月02日
小気味良く、ギターでリズムが刻まれる出だしからして、気持ちの良い曲だった。そのギターを含めて、音の一つ一つが乾いていて、これを聴いていると、村田和人の屈託のない笑顔が浮かんできそうな気がする。そして、その笑顔に誘われるかのように、こちらまで笑みが隠せなくなる。確か、シングル盤があったはずだと思いながら、原稿書きの手を止めて探したら、ちゃんとあった。富沢天のイラストで、淡いピンクとブルーを下地に、受話器と灰皿が描かれた例のジャケットと共に。
これが、村田和人のデビュー・シングル、「電話しても」だ。1982年4月21日、新設されたばかりのMOON RECORDSから、アルバム『また明日』に先駆けての発売だった。アレンジは山下達郎で、途中のギター・ソロも彼が担当し、青山純、伊藤広規の鉄壁のリズム隊が関わって完成されている。もともとは、鈴木茂のアレンジで進められていたらしく、そちらのヴァージョンも、CDでは追加されて聴くことができる。
「電話しても」から2カ月ほど遅れてデビュー・アルバム『また明日』は、発売された。山下達郎、鈴木茂の二人がアレンジを分け合い、「BE WITH YOU」は、井上鑑が担当している。この「BE WITHYOU」も、ぼくは大好きだった。他にも、豪快にスライド・ギターが楽しい「GREYHOUND BOOGIE」を含めて、バラエティに富んだ内容だった。この後、山下達郎のライヴにコーラスで参加したり、マクセル・カセットテープのCMに使われた「一本の音楽」などで、村田和人は広く親しまれるようになる。
この頃だっただろうか、幾度か仕事でお会いした。また、近くに住んでいたこともあって、同じ電車に乗り合わせて雑談を交わしたりした。何時会っても、何処で会っても変わらず、また誰にも分け隔てなく接し、自分のことを「ぼくは」や「おれは」と言わずに、「村田は」と呼び、それが、妙に人懐っこく聞こえたのもあるし、そもそも、こちらの気取りとか、気負いとかを解きほぐしてくれるところがあった。
音楽にもそれは現れていて、素直というか、実直というか、音楽に向き合う時はいつも初めて接するかのような、アマチュアっぽいひたむきさがこの人にはあった。たぶん、都会的なポップスとして位置づけされていたように思うが、そういったジャンルやくくりを超える大きさが、この人の歌にはあった。誰もが、同じように洗練された方向を見ていたときに、彼のそんなところが、とても貴重に思えた。ただし、音楽は、入念に練り上げられた気配が見て取れたし、歌にしても、一語一語きっちりと思いを言葉に託していて、その日本語の丁寧な歌いっぷりも、ぼくは好きだった。
その後お会いしたのは、随分経ってからで、ぼくが、音楽雑誌の連載をやらせてもらっていたときだ。久々に会いたくて、取材をお願いした。病に伏せたり、紆余曲折を経験したことをそのとき初めて知った。ただ、周囲に流されず、出来ることをきちんとやりたい、小さな会場でもいいので、ライヴという形でファンの皆さんと音楽を共有したい、という思いを語り、実際、都内の小さな会場で定期的にライヴを続けていた。また、杉真理、濱田金吾、松下誠など沢山の友人たちといろんな形で、それも意欲的に活動していた。
たまたま、ぼくも、同じお店でトークイベントみたいなことをやっていたこともあり、よくふらりと顔を見せてくれた。彼のライヴは、毎回超満員だということだったけれど、どうしても久々に聴きたくなって、お店に予約を入れて楽しみにしていたところだった。体調を壊してライヴが中止になったとお店から連絡が入り、それから訃報が続いた。
それがとても悔いの残る形になったけれど、1月2日は、その村田和人の誕生日にあたる。存命ならば、という決まりきった前置きはこの際不要にしたい。いまでも、大きな空の向こうから、あの笑顔がのぞいているような気がするし、「また明日」なんて言葉からも、その前置きは似合わない。ただ、今日で村田和人は、65才になったとだけ記しておこうと思う。
最後は、連載でお会いした時の記事から引用させてください。
広々とした真っ青な空もそこに貼りついた大きな太陽も、夕暮れの風にそよぐ潮の匂いも、静かに夜の海に影を落とす月も、そして家族や友人たちの笑顔も悲しい表情も嬉しい声も、この人(村田和人)は、なにひとつないがしろにしないで、夏という季節をひとつの人生として描いていこうとしているようにみえる。
そう、いまもなお、そうみえる。
村田和人「電話しても」「一本の音楽」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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