2019年06月13日
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2019年06月13日
昭和8年に京山茶目丸の名で初舞台を踏んだのち、昭和17年に浪曲師・酒井雲坊としてデビュー。昭和29年には新作浪曲コンクールで優勝したのをきっかけに村田英雄に改名して浪曲界のスターに。たまたまラジオで村田の口演を聴いていたという作曲家・古賀政男に見出され、十八番の演目であった浪曲を歌謡曲化した「無法松の一生」で昭和33年8月にコロムビアから歌謡曲デビューを果たした。昭和36年11月に出された「王将」が空前の大ヒットを記録して歌謡界でもスターの座を獲得。それ以前に発表していた「無法松の一生」や「人生劇場」なども改めて注目を集め、次々とヒットに至る。昭和50年代には有線放送から火が点いたヒットや、『ビートたけしのオールナイトニッポン』で急遽スポットを浴び、“ムッチー”の愛称で若年層からの人気を得たことも。30代で発症してしまった糖尿病と長年闘った末、平成14年に73歳で没するも、2年後には故郷の佐賀県唐津市に村田英雄記念館がオープンし、現在も年に一度「村田英雄音楽祭」が開催されている。6月13日は村田英雄の命日。亡くなってから早17年になる。
その豪快なキャラクターに目を付けたビートたけしがパーソナリティーを務める深夜ラジオ『オールナイトニッポン』でコーナー化したのは昭和56年から57年にかけての頃だった。「村田だ。ガムくれ!」「村田だ。オレのボルト(ボトル)を出せ!」といったギャグが生まれて若者の間で思わぬ人気を博し、遂には番組にゲスト出演した回もある。ちょうど古巣のコロムビアから東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック)へ移籍した時分で、当時歌っていた「人生峠」や「夫婦酒」がスマッシュヒットするという現象にまで至った。平成5年に芸能生活60周年を記念して出版された著書のタイトルも『俺は村田だ!!』であった。“ムッチー”の愛称は、先に“ミッチー”として人気を再燃させていた三橋美智也に肖ったものであったことは言うまでもない。同時期に活躍した三橋、そして先輩格の春日八郎と共に“三人の会”を結成したのは昭和63年のことだったが、平成3年に春日が、8年には三橋が亡くなっている。さらに平成13年には、同じ浪曲師出身で永遠のライバルと称されていた三波春夫も亡くなり、村田もその翌年に後を追うように亡くなってしまった。昭和30年代に活躍した歌謡界のスターたちが平成になってから相次いで世を去ってしまったのは残念でならない。昭和4年生まれの村田や、5年生まれの三橋はいま存命でも不思議ではないくらいの年齢だが、みな少し逝くのが早かった気がする。苦労を重ねた年代だったのだろう。
村田のヒット曲は、戦後初のミリオンセラーといわれる「王将」をはじめ、「柔道一代」「皆の衆」「花と竜」「夫婦春秋」など数多く挙げられる。「夫婦春秋」は昭和42年に歌手生活10周年記念曲として出されてから12年後に有線放送でヒットしてチャートインし、日本作詩大賞特別賞受賞。最終的に作曲家・市川昭介6作目のミリオンセラーとなった作品。ほかに異色作としては、昭和41年に大御所の古賀政男が書き下ろした「万国博音頭」を出している。ライバルの三波春夫らが歌った「世界の国からこんにちは」の前々年に出された、大阪万博の関連ソング第1号だった。また、昭和43年に出されたシングル「捨てて勝つ」のカップリング曲「太陽に祈ろう」(作曲:山本丈晴)は、当時のグループサウンズブームが反映されたポップス調。大瀧詠一がラジオで取り上げたことをきっかけに隠れた“一人GS”作品として一部で知られるようになった。美空ひばりの「真赤な太陽」や都はるみの「涙のバラ」、こまどり姉妹「恋の風車」などと並ぶコロムビア歌謡曲歌手によるビート歌謡の傑作である。ちなみに平成18年に初CD化された。紅白歌合戦出場27回、42年に及んだ歌手人生の間に吹き込んだ作品には、まだまだ後世へ遺すべきものがたくさんある。令和の時代にも男気溢れる村田英雄の力強い歌声が愛され続けてゆくことを願ってやまない。
村田英雄「無法松の一生」「王将」「人生劇場」「万国博音頭」「捨てて勝つ/太陽に祈ろう」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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