2019年04月12日
スポンサーリンク
2019年04月12日
ドリス・デイのカヴァー「ケ・セラ・セラ」や、自訳詞した「ドレミのうた」に代表されるポピュラー・ソングをはじめ、オリジナルでは「南国土佐を後にして」「爪」「学生時代」などのヒットで知られるペギー葉山の突然の訃報が届いたのは、2年前の2017年4月12日のこと。早くも三回忌となる。1952年のデビューから65年をキングレコード所属歌手として貫き、生涯現役だったペギー葉山には、2000曲を超えるレコーディング曲があるという。最後のオリジナル曲となったのは、NHK『ラジオ深夜便』の<深夜便のうた>として紹介された「おもいでの岬」で、歌手時代から親交のあった弦哲也の作詞・作曲。現・作曲家協会会長の任にある氏は、2017年6月22日に催されたペギー葉山お別れの会で、愛するパートナーとの旅を想い出すというテーマで書かれた「おもいでの岬」について語り、万感の想いで別れの挨拶を述べた。70周年記念コンサートを実現出来ぬままに旅立ってしまったのは誠に残念であった。
戦後の日本ポピュラー史を語る上で欠くことの出来ない歌手のひとり、ペギー葉山は1933年、東京・四谷に生まれた。幼少の頃から歌が好きで、中学生の時には声楽家の内田るり子に師事して音大を目指すも、駐留米軍ラジオのWVTR(後のFEN、現AFN)をきっかけに、クラシックからジャズ・ポピュラーへと指標を転化させる。さらに、青山学院高等部2年の時に観た映画『我が道を往く』がその後の運命を決定づけた。劇中でビング・クロスビーが歌う「アイルランドの子守唄」に感銘を受けた彼女は、ハワイアン・バンドのリーダーを務めていた親友の兄を通じて、進駐軍キャンプで歌うことになる。やがて当時最も人気があったビッグバンド、渡辺弘とスターダスターズの専属歌手となった。ナンシー梅木の後釜となる3代目で、ジャズ・シンガーのティーブ・釜萢(かまやつひろしの父)紹介であったという。抜群のフィーリングでポピュラー・ソングを歌う日本人歌手はすぐに評判を呼んだ。
そしていよいよ、1952年11月に「ドミノ/火の接吻」でキングレコードからレコード・デビュー。同じキングから江利チエミ、ビクターからは雪村いづみら、同世代のポピュラー歌手が次々にデビューする中、得意ナンバーのひとつ「センチメンタル・ジャーニー」で“日本のドリス・デイ”の異名をとり、十八番となる「ケ・セラ・セラ」などをすっかり自分のものとしてポピュラー・ソングのカヴァーを吹き込んだ。54年には「月光のチャペル」でNHK紅白歌合戦に初出場。(以降65年まで12年連続出場を果たし、66年には紅組司会も務めている。)55年には初めて渡米して各地でショーを行ない、58年にはミュージカル『あなたの為に歌うジョニー』で芸術祭個人奨励賞を受賞するなど、活躍の場を広げていった。
デビュー以来、ずっとポピュラー・ソングを歌い続けてきた彼女にとって異色の作品となったのが「南国土佐を後にして」である。元々は別歌手が歌っていた曲を、58年にNHK高知放送局がテレビ放送を開始した際の記念番組『歌の広場』で披露して好評を得たことがきっかけとなりレコーディング。翌59年にレコード発売されると空前の大ヒットへと至り、日活で映画化もされた。日本調ながら決してコブシを回していないのが特徴である。ペギーには後に、高知県名誉県人の称号が贈られた。以降は「ラ・ノビア」や「ドレミのうた」など、本来のポピュラー・シンガーとしての作品と並行して、平岡精二の作詞・作曲による「爪」や「学生時代」などのオリジナル作品でもヒットを放ち、歌謡界でも確固たるポジションを築き上げる。ヴィブラフォン奏者としても知られる作詞・作曲家の平岡精二は青山学院でペギーの先輩にあたり、「学生時代」も同校を舞台に作られた作品であった。当初は「大学時代」のタイトルだったが、ペギーが「私は大学には行ってないから」とタイトルを改めてもらったのだという。2009年には青山学院青山キャンパス内にある礼拝堂の前に「学生時代」の歌碑が建立され、ペギーも除幕式に出席した。
65年には俳優の根上淳と結婚し、芸能界きってのおしどり夫婦として知られるようになる。70年代にはNHK『歌はともだち』の司会などタレント業も盛んに行ない、ある一定の世代にとっては、円谷プロの特撮テレビ映画『ウルトラマンタロウ』で、ウルトラの母の人間としての姿(緑のおばさん)を演じたのが印象的であろう。夫の根上がシリーズの前々作『帰ってきたウルトラマン』で地球防衛チームの隊長役を務めていたことが縁で起用されたのではないかと推察される。挿入歌「ウルトラの母のバラード」は実際に番組で使われたのは別歌手によるものだったが、ペギー自身もカヴァー・ヴァージョンとしてもちろんキングで吹き込んだ。クラシック畑出身の冬木透が作曲した知る人ぞ知る名曲である。近年では押しも押されもせぬ大ヴェテランとして存在感を示し、1995年に紫綬褒章、2004年に旭日小綬章を受章。2007年には社団法人日本歌手協会の初の女性会長に就任し、3年間務めた後に理事、2014年からは名誉会長となっていた。心に響くペギー葉山の優しい歌声はこれからもずっと愛され続けてゆくことだろう。
ペギー葉山「ドミノ」「ドレミのうた」「南国土佐を後にして」「学生時代」「ウルトラの母のバラード」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
55年前の1964年の本日、8月5日に橋幸夫「恋をするなら」が発売された。この曲から「ゼッケンNo.1スタートだ」「チェッ チェッ チェッ」へと続く3部作こそ、橋と吉田正(作曲家)、佐伯孝夫(作...
坂本九や森山加代子がいたマナセプロダクションに所属し、60年代初頭から映画・テレビを中心に、歌手・テレビタレント・俳優と幅広いエンターティナーとして活躍してきたジェリー藤尾。歌手としての代表作は...
6月13日は村田英雄の命日。亡くなってから早17年になる。村田のヒット曲は、戦後初のミリオンセラーといわれる「王将」をはじめ、「柔道一代」「皆の衆」「花と竜」「夫婦春秋」など数多く挙げられる。な...
本日が76歳の誕生日となる橋幸夫はザ・ビートルズで最年少だったジョージ・ハリスンやザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーおよびキース・リチャーズと同い年だが、1960年に弱冠17歳でレコー...
元々B面曲だったのがA面曲を凌駕するほどのヒット曲に大逆転。今から47年前の今日1972年2月19日にオリコン・チャート第1位に輝いたガロの「学生街の喫茶店」も、そんな下剋上ヒットの典型的作品だ...
本日5月7日は、ムッシュかまやつの実父であり、日本ジャズ界のパイオニア的存在ティーブ釜萢の誕生日。最期までダンディで小粋な歌いっぷりが魅力的な明治生まれのジャズ・シンガーであった。 text b...
『はぐれ刑事純情派』の部長刑事、『必殺仕置人』の中村主水、『てなもんや三度笠』のあんかけの時次郎と、世代によって俳優・藤田まことへ抱くイメージは異なるであろう。実は歌手としても多くの音源を遺して...
『11PM』『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』をはじめ、昭和のテレビ番組史を彩った名番組の数々で司会を務めたほか、作家、評論家、政治家、実業家などさまざまな顔を持つマルチタレントのハ...
『日本侠客伝』シリーズ』や『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝シリーズ』などの任侠映画を中心に東映の看板スターとして活躍した高倉健。フリーに転向した76年以降は『八甲田山』や『幸福の黄色いハンカ...
1968年1月4日、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」がオリコン・チャート1位を獲得した。オリコンシングルチャートはこの年の1月から正式にスタートしたので、「ラブユー東京」は記念すべき最初...
2017年で59回を迎える日本レコード大賞。第1回の開催が行われたのは1959年の12月27日のことである。1969年から2005年までは毎年、大晦日に行われていた。本選まで進んだ歌手たちが、N...
いくつかのバンドを経た後にハナ肇とクレージー・キャッツのメンバーとなり、人気を爆発させた植木等。映画にテレビにステージに、八面六臂の大活躍で高度経済成長時代の顔ともいえる国民的スターは、2007...
本日12月18日は、日本を代表するシンガー、布施明の誕生日。1947年生まれなので、なんと古希を迎える。高校在学中に、日本テレビのオーディション番組『味の素ホイホイ・ミュージック・スクール』に合...
「可愛いベイビー」で62年にデビューした中尾ミエ。デビュー曲はいきなり大ヒットとなる。同年に始まったフジテレビ『森永スパーク・ショー』で、同じ渡辺プロダクションの園まり、伊東ゆかりと共に司会を務...
今日6月9日は「ロックの日」とされているそうな。あくまでも語呂合わせであって、べつにロックが誕生した日ではない。それではロックと呼ばれる音楽が誕生したのはいつなのだろうか? 元々ヒルビリーと呼ば...