2019年05月03日
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2019年05月03日
本日が76歳の誕生日となる橋幸夫はザ・ビートルズで最年少だったジョージ・ハリスンやザ・ローリング・ストーンズのミック・ジャガーおよびキース・リチャーズと同い年だが、1960年に弱冠17歳でレコード・デビュー。もちろんビートルズやストーンズより2~3年早い。
今ではデビューが17歳でも決して早過ぎることはないし、当時も女性歌手では12歳だった美空ひばりは別格としても、すでに江利チエミ15歳、雪村いづみ16歳などの例もあり、また1958年より開催された『日劇ウエスタン・カーニバル』の人気ロカビリー歌手だったミッキー・カーチス、平尾昌晃、山下敬二郎らも20歳前後と若い方ではあったが、王道たる歌謡系男性歌手となると、徒弟制度のために時間が掛かるのが常だったはず(才能と運があった人でも早くて22歳くらいか)。
ちなみに橋がデビューした年にいきなり出場することになったNHK『紅白歌合戦』で橋の次に若かったのは同じく初出場だったミッキー・カーチスと守屋浩だが、共にロカビリー出身で新しい時代の若者代表というイメージでも、すでに22歳だった。
なお、それまでのスタアとは娯楽の王者・映画スタアのことだったが、TVの急速な発展のため、映画の観客数は1958年をピークとして減少に転じる一方、ラジオで聴いていた歌手をTVで「見る」ことになる転換期でもあった。やがて歌謡スタアの人気が映画スタアを凌ぐことになる準備は整って来ていたのだが、そこでネックとなるのは、とにかく熟練の歌唱力こそが最優先だった歌手の「年齢」と「ビジュアル」だったろう。
その6年ほど前の米国で「R&Bのテンポでヒルビリーを歌うなんて想像出来るかい?」と言われたのは、19歳のエルヴィス・プレスリー。人種差別のために一般的には取り上げられない黒人の音楽のノリで歌える白人が存在するのならば爆発的な人気が出るに決まっている。それを当時の日本に置き換えるならば、デビューする頃には皆オジンになっちゃう男性歌謡界に、若くて歌が上手くて、さらには特に女性に人気の高かった映画の時代劇スタア・市川雷蔵にも似たような歌手が現われれば大ブレイクするはず、ということになろうか。そして実際に橋はそれを体現することになった。
橋が歌手になるキッカケは、すでにプロ作曲家だった遠藤実の歌謡教室に親の勧めで通うことになったことで、遠藤は契約していてヒットの実績もあった大手レコード会社の日本コロムビアに橋を売り込むが、オーディションで落とされる。若過ぎるというのが理由だったと聞くが、コロムビアなら前述の美空ひばりも、また16歳でデビューした島倉千代子も擁していたのに、やはり男性歌手の世界は封建的だったのか。しかし遠藤は諦めず、あろうことか、老舗のライバル会社であるビクターにアプローチ。採用されると当時の専属制のために遠藤の手を離れざるを得なくなるのだが、そのビクターでは都会的なムード歌謡を開拓するなど新しい感覚を持つ大作曲家・吉田正との出逢いがあったというのも運命的。かのビートルズが1962年に大手の英国デッカ・レコードのオーディションで落とされながらもライバル会社であるEMI傘下のパーロフォンに拾われると、そこには先進的なセンスあるプロデューサーのジョージ・マーティンが居たことを連想させられる。
当初は否定的だった各レコード会社も、橋の大成功を見ると慌てて二匹目のドジョウを求めて若い男性歌手をデビューさせたが、いずれも橋ほどの爆発力は無く、やっと橋のライバルと言える存在として因縁のコロムビアが舟木一夫をデビューさせるまでに何と3年間を要することになったことでも、いかに橋が突出していたかが分かろうというものだ。
その舟木には、これまた遠藤実が関わっており、もちろんデビュー曲「高校三年生」も遠藤の作曲、芸名も元々は橋のために遠藤が用意していたものだった、というのは有名な話。そして、東京人で、明るい声質であり、実家が呉服屋だったこともあって豪華な着物姿の衣裳でも魅せた橋に馴染めない層には、地方出身で、哀愁を帯びた声質で、さらには地味な学生服をトレードマークにするといったアピールが大いに有効であることを見抜いていた遠藤こそは、曲作りの才能もさることながら、当時の日本歌謡界で最もプロデューサー的なセンスがあったということになろうか。
こうして影たる舟木が出現してくれたことで、むしろ対照的に橋の光度は増すことになり、その機能美とでも言うべき歌唱力に磨きをかけて、あらゆる歌謡曲の可能性に突き進むが、ロック系のファンが興味深いのは、やはりリズム歌謡路線でしょ。
これはベンチャーズの影響で、といっても、ベンチャーズが本格的に来日してエレキブームを巻き起こすのは1965年だが、その前年に橋と吉田正そして作詞家・佐伯孝夫の鉄板チームは「恋をするなら」を発表。以降、他の路線の楽曲を多数リリースしながらもリズム歌謡の沸点を上げ続ける。続々と迫り来る黒船エレキ軍団とがっぷり四つに組んだ上で、わが歌謡曲の大地にねじ伏せる横綱相撲、それが橋のリズム歌謡だ。橋に洋楽コンプレックスは無いから、その歌いっぷりにはいささかの揺るぎも無い。
この路線の最終作となったのは1967年5月(ザ・タイガースならば「シーサイド・バウンド」の頃)発売の「恋のメキシカン・ロック」で、ザ・スパイダースのドラマー・田辺昭知を招致。細かいリズムを刻み続けるパーカッションとパワフルながら軽快なブラスセクションとのアンサンブルも見事で、もはやエレキ(ギター)はフロントから退いており、翌68年にピークを迎えるグループサウンズの音楽の方が今では古臭い感じさえする。
さらに私のイチオシは同年10月リリースの「佐久の鯉太郎」。デビュー曲「潮来笠」以来の定番、米国でならHobo Song(時にOutlaw Blues)の股旅歌謡ながら、アレンジが肝で、ロックバンドたるべきGSですらレコードでは甘美に配していたオーケストラをスッパリ排し、バンジョーならぬ三味線とエレキギターとスチールギターがツインリード、時にはトリプルリード的にエイトビートでピキピキ弾きまくり、その小気味良いリフに負けじと尺八がクールな熱気で吹き上げるバッキングを全身に受けた橋の快唱は日本晴れの大空高く翔け昇る。
で、そのまま太平洋を渡り鳥、アメリカ大陸を東へ東へ、1年10か月後のウッドストックに着地して鳥仲間のザ・バーズと共演すれば面白かったのに~。敏腕クラレンス・ホワイトのストリングベンダーギターとカントリーロック対決だ!って、あ、バーズはウッドストックには出なかったか、ならば「メキシカン・ロック」でサンタナと競宴ダナ♪
※吉田正の「吉」は「土に口」ですが、システムの都合で、「吉」とさせていただきます。
橋幸夫「潮来笠」「恋をするなら」「恋のメキシカン・ロック」「佐久の鯉太郎」舟木一夫「高校三年生」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
小野善太郎(おの・ぜんたろう):高校生の時に映画『イージー・ライダー』と出逢って多大な影響を受け、大学卒業後オートバイ会社に就職。その後、映画館「大井武蔵野館」支配人を閉館まで務める。現在は中古レコード店「えとせとらレコード」店主(実店舗は2020年の東京オリンピック後に閉店予定)。 著書に『橋幸夫歌謡魂』(橋幸夫と共著)、『日本カルト映画全集 夢野久作の少女地獄』(小沼勝監督らと共著)がある 。
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