2015年06月11日
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2015年06月11日
6月11日は「傘の日」、といえばやはり井上陽水「傘がない」。本日のコラムは当時、ホリプロで制作担当として現場にいた川瀬泰雄による「傘がない」誕生の知られざる経緯です。
1972年7月1日に発売された作詞・作曲:井上陽水 編曲:星勝による『傘がない』。
1969年、父親の職業の歯科医院を継ぐため歯科大を目指して3浪目の年、九州RKB毎日放送に送った曲名「カンドレ・マンドレ」の自作テープが評判になり、すぐにレコード会社はCBSソニー、プロダクションはホリプロに決まった。
アーティスト名はアンドレ・カンドレ。
この1969年という年は僕がホリプロに正式入社した年だった。
実際には卒業研究の発表も終わり、やることがなかった入社予定者は研修もかねて前年の1968年10月から出社していた。
余談だが1968年の10月は和田アキ子のデビュー時で最初にやった仕事は、和田アキ子のキャンペーン。
2か月後1968年12月10日には三億円事件が東京都府中市で発生している。
1960年代後半、ベトナム戦争が激化、また、1970年で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが、学生を含む左派陣営で起きていた。
日本もアメリカも学生中心のデモ活動や、音楽的な反戦メッセージが盛んになって行き、ポップスもロックもフォークも方向を模索していた。
アンドレ・カンドレのデビューはこんな混沌とした時期だった。
ビートルズに多大な影響を受けていたアンドレ・カンドレが作る曲は、ポップス感覚あふれるメロディで本人の綺麗に響く声の良さも、この混沌とした反戦歌が蔓延している時期には微妙にギャップがあった。その為、低迷を余儀なくされてしまう。
CBSソニーもほとんど何の動きもなし。契約の延長もなかった。
しかも、ホリプロのタレント見直し時期にリストラ候補になってしまう。
ただ、この約2年間の間にもアンドレの曲つくりは続いていた。
そしてホリプロの中でアンドレ・カンドレの本当に身近なスタッフによって、レコード会社への売り込みがされていた。
売り込みをしている中で、ポリドール・レコードのプロデューサー多賀英典氏が作品と声に乗ってくれた。
文学青年である多賀氏はやはりアンドレの詞の弱さを端的に指摘した。
僕の手元にも当時の没になった詞、アンドレ本人の手書きによる彼独特の字できちんと書かれた原稿用紙が10篇ほど保存してある。
ほとんどの曲のメロディは良いのだが詞に関してまだ物足りなかった。
しかし、そのうち2編の詞で1曲にするなど完全に捨てられてはいないものも数曲ある。
名前も本名に戻そうよということになり井上陽水になる。ただし本名は陽水(あきみ)と読む。
陽水としての作品作りの時期、仕事らしい仕事はない。
そんな時、僕が同時に担当していたモップスに1971年7月17日に後楽園球場で行われる「ロック・カーニバル#6」出演の依頼が来た。
ヘッドライナーとして出演したのはグランド・ファンク・レイルロード。
陽水も観に行きたいというので、スタッフ用のバックステージ・パスを1名分余分に申請してスタッフとして入場した。
当日の天候は伝説になっているほどの悪天候になった。
まだドーム球場が出来る前の後楽園である。突然降り始めた大粒の雹(ヒョウ)から楽器を守るためスタッフやマネージャーが総出でステージにシートを被せ、ダッグアウトで、突然の嵐が通り過ぎるのを待った。ダッグアウトにはグランド・ファンクのマーク・ファーナーなども一緒だった。
幸い2時間ほどたったところでグランド・ファンク・レイルロードの演奏もやることになった。
グランド・ファンクの演奏は迫力満点だった。特に印象に残ったのが「ハート・ブレイカー」だった。
コード進行は有名なデル・シャノンの「悲しき街角」やヴェンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」など、ポップスに良く使われるAm-G-F-E7が中心となったコード進行なのだがスリルがあり、実にカッコよかった。
仕事がない時など僕の自宅に良く来て、一緒にビートルズなどをハモっていた陽水はある時、「こんな曲はどう?」と歌い出した。「傘がない」の原型である。
その頃の世間の風潮を多少皮肉った、学生運動よりも取りあえず雨が降ってる目の前の問題を何とかしようよ、というテーマだった。
「ハート・ブレイカー」のリズムとAm-G-F-E7のコード進行はこの曲にピッタリだった。
よく言われるパクリや盗作ではない。メロディも違うし、この「ハート・ブレイカー」のAm-G-F-E7のコード進行自体がすでに数十曲で使われている。
ただ、この時はサビがなかったのだ。
ちょっと物足り無さを感じた僕は自分が弾いていたギターで「F」を押さえ、この辺の音でサビを作ろうよ、と提案した。その場で陽水はDmを押さえ「冷たい雨が~」からのメロディを作り始めた。
適度のロック感とポップ感がある良い曲に仕上がった。
東大安田講堂事件あたりから学生運動も過激派と呼ばれる一団が現れ、主義主張もおかしくなり、連合赤軍の「あさま山荘事件」へと変貌していく学生運動に世間はうんざりし始めた頃、やっと陽水の詞が受け入れられ始めた。
ちなみに、シングル盤とアルバム『断絶』のジャケット写真は猿楽町からマロニエ通りに登る階段の坂道「男坂」です。
最近、娘を連れて井上陽水のコンサートを観に行った。
客席で聴いた「傘がない」で当時のことを思い出し、娘に「この曲のサビはウチで作ったんだよ」と説明した。
楽屋へ行くと、陽水氏は娘に久しぶりに会うとこう言った。
「お父さん、『傘がない』を歌ってる時に、この曲、ウチで作った、と言ってたでしょう」。
図星だった。
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