2019年07月15日
スポンサーリンク
2019年07月15日
本日7月15日はニッポン放送の開局した日である。今年で開局65周年を迎えた。今から48年前の開局記念日の日、僕は後楽園球場で行われるグランド・ファンク・レイルロードのライブへの準備に奔走していた。この日本初のスタジアム・ライブには司会者がついていて、糸居五郎さんが担当することになっていた。
日本の音楽シーンに洋楽のヘヴィ・ロックが本格的に定着したのは1971年のことではないだろうか。1ドル360円で海外旅行などまだ夢のような時代。ウッドストックやモンタレー・ポップ・フェスの話題が伝わってくるとともに、ほんとうの本物が次々にやってきたのが1971年という年だった。
当時の僕はニッポン放送に入社して間もない新米ディレクター。ある日、上司からキョードー東京の興行部長をやられていた上條さんという方を紹介された。初対面で“こんどウチの招聘、ニッポン放送の主催で海外ミュージシャンのロック・コンサートをシリーズでやることになった。PRをよろしく頼むよ”と言われ、もともと音楽番組を作りたくて入った会社で音楽の最前線にふれる仕事に参加できることが飛び上がるほど嬉しかったが、上條さんの仕事ぶりは厳しかった。
朝・昼・晩にチェックの電話が入り、“まだまだPRが足りない”“おまえ、きちんとやっているのか”とお叱りの声ばかり。まだFM局もなく、テレビの音楽番組も少なかった頃で、AMラジオの宣伝力は大きかった。自分のもっている番組だけでなく、告知原稿を用紙に書いて昼夜かまわずいろんな番組で告知してもらうように社内中を走り回っていたのを思い出す。大型コンサートのはしりのような頃で、いまのように即完などということはあり得ず、動員には大量の宣伝が何よりも必要だった。
“ロック・カーニバル”の名が付けられた第一回は70年12月、イギリスのギタリスト、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズ。60年代にエリック・クラプトンも在籍していた名グループであるが、このときは3人のメンバーでの来日だった。会場は有楽町の日劇ホール。年が明けて2月、売り出し中だった“ブラッド・スエット&ティアーズ(BS&T)”の武道館公演は凄かった。アンコールで興奮した客のひとりが2階から1階に飛び降りる姿が記録フィルムに残っている。
そのあとブルース・ギターの神様、B・Bキング(サンケイホール)に続いて4月のフリー(サンケイホール)、6月のシカゴ(武道館)と続き、7月にはまだ屋根がなかった後楽園球場でのグランド・ファンク・レイルロード、8月のピンク・フロイド(箱根芦ノ湖畔)、9月のレッド・ツェッペリン(武道館)、10月のエルトン・ジョン(渋谷公会堂、厚生年金ホール)でシリーズは終了した。これだけのバンドが、わずか1年のあいだにいずれも初来日しているのだから、いかに71年がエキサイティングな音楽年だったかがわかるし、そのあとエマーソン・レイク&パーマー(後楽園球場)やディープ・パープル(武道館)、サンタナ(武道館)がやってきた頃には、大型コンサートは当たり前のものになった。
ひとつひとつのステージが思い出深いものばかり。なかでも箱根アフロディーテのピンク・フロイドとともに、豪雨の中でおこなわれた最強ロック・トリオ、グランド・ファンク・レイルロードが印象深い。ニッポン放送が開局記念日で盛り上がっていたのが7月15日。その頃、日本に到着した彼らのライブは2日後の7月17日、後楽園球場で行われた。「霧の中の二人」がヒット中だったマシュマカーンが前座で、そのマシュマカーンの演奏が終盤にさしかかった頃、一陣の風がすーっと吹いて、2塁ベース後方あたりに設置された大きなステージの脇の看板がめくれ上がるとともに、外野席近くに設置してあった看板が吹っ飛んだ。
いやな予感がしたのもつかの間。いきなり雷が光り、ドーッと激しい雨が叩きつけ、通路があっという間に滝のよう。野外ライブに雨はつきものと言われて、その後も多くの雨中コンサートを経験したが、あれほどの豪雨の中で敢行されたのは思い当たらない。ずぶぬれになりながらも観客は、バンドの登場を信じて誰も動かない。シャワーを浴びるような状態が40分くらい続いたあと、司会の糸居五郎さんがびしょ濡れでステージに出てきて観客に呼びかけた。“皆さん、グランド・ファンク・レイルロードは必ず演奏すると言っています・・”。このひと言で興奮はMAXに。そのあと3人のメンバーが登場して、豪雨の中でのステージは23時ちかくまで続けられた。
このライブには私的な後日談もある。この年の大晦日、今年のロック・イベントを振り返る特番を作って放送したとき、あの豪雨の夜を何とか再現できないものかと考えた。もちろん録音などはとっていない。そこで糸居さんにお願いして、あの日を思い出してもらい、スタジオで深いエコーとフィードバックをかけて“皆さん、グランド・ファンク・レイルロードは必ず演奏すると言っています・・”。と同じように叫んでいただいた。グランド・ファンクには前年末にリリースされた素晴らしいライブ・アルバムがある。それに豪雨の音をいっぱいかぶせて「ハートブレイカー」を放送した。あの日、後楽園球場の観客席にいた方ならば、もう一度あの興奮に浸ることができるかもしれないと思いながら・・。これもラジオならではのマジックである。
グランド・ファンク・レイルロード(後楽園球場)写真提供:佐藤晃彦 / JEFF SATO
ピンク・フロイド(箱根アフロディーテ )写真提供:ニッポン放送
≪著者略歴≫
岡崎正通(おかざき・まさみち):1946年東京生まれ。早稲田大学第一政経学部卒業。早大「モダンジャズ研究会」に所属し、学生ジャズ研連合による来日中のジョン・コルトレーンのインタビューにも携わる。68年、ニッポン放送入社。76年からオールナイト・ニッポンのチーフプロデューサー。ニッポン放送常務取締役を経て、現在ニッポン放送監査役。ジャズ研究家としても活躍する。
ピンク・フロイドの初来日コンサート“箱根アフロディーテ”が開催されたのは1971年8月6日と7日。もう半世紀近く前になるが、このイベントに足を運んだ人に出会って、その話になると、いまでも“あー、...
「魔女のささやき」、「ならず者」、「我が愛の至上」、「呪われた夜」、「ラスト・リゾート」、そして、「ホテル・カリフォルニア」等々、イーグルスにおいてドン・ヘンリーがリード・シンガーとしてかかわっ...
13年前の今日、2006年7月17日付けギネスブックにサンタナ世界初のライブ・アルバム『ロータスの伝説 サンタナ・ライブ・イン・ジャパン』が世界最大のジャケットを持つLPとして認定された。これか...
今日は元フリーのベーシストとして有名なアンディ・フレイザー(本名:Andrew McLan Fraser)の誕生日(1952年7月3日)である。残念ながら2015年3月16日に62歳という若さで...
「心のラヴ・ソング(Silly Love Songs)」は、ポール・マッカートニー&ウイングスの、1976年のメガ・ヒット曲だ。英国では2位止まりだったものの、絶頂期を迎えていたウイングスのツア...
1972年6月14日、大阪フェスティバルホールでシカゴをライブ録音した。シカゴは前年10月に4枚組の超弩級ライブ・アルバム『シカゴ・アット・カーネギー・ホール』を発売し、日本でも12月に発売して...
およそ50年前、ザ・ローリング・ストーンズの傑作「ブラウン・シュガー」は生まれ、そして本日は全米ヒット・チャート第1位に輝いた記念すべき日である。天下一品、単純にして明解、問答無用のイントロで始...
タイダイのシャツにジーンズ姿で、マイクスタンドの前に仁王立ち。かすれた声で歌い始めたかと思えば、やがて唸り、吠え、身体をくねらせて絶叫する熱狂的なパフォーマンスに圧倒された。1969年8月、あの...
スティーヴィー・ワンダーが現時点での最新アルバム『ア・タイム・トゥ・ラヴ』を出したのは、2005年、つまり14年前だ。その前作は、1995年の『カンヴァセーション・ピース』『ナチュラル・ワンダー...
ちょうど50年前の本日11月30日は、レッド・ツェッペリンがアトランティックと20万ドルという破格の契約金で契約を交わした日である。1968年7月、ヤードバーズとしての最終公演を行う前提でメンバ...
レッド・ツェッペリン通算7枚目のアルバムとなる『プレゼンス』は、1976年の3月末にアメリカで発売(英国ではいつものようにその少し後に発売)。75年にリリースされた前作の『フィジカル・グラフィテ...
本日9月6日は、元ピンク・フロイドのメンバーで知られるロジャー・ウォーターズの74歳の誕生日(1944年生まれ)である。25年ぶりのスタジオ・アルバム『イズ・ディス・ザ・ライフ・ウィ・リアリー・...
71年に入るとフリー、シカゴ等に続き、日本でも人気が急上昇し話題となっていたハード・ロック・バンド、グランド・ファンク・レイルロードが初来日し、後楽園球場でコンサートを行った。私自身は当時高一・...
「ハーイ!夜更けの音楽ファン、こんばんは!そして、朝方近くの音楽ファン!おはようございます!Go Go Go and Goes On!」誰もマネすることの出来ない音楽のビートに乗せた独特のトーク...
忘れられない誕生日ってありますか? もしグランド・ファンク・レイルロードのギタリスト、マーク・ファーナーにこんな質問をしたら、「25歳の誕生日」と答えるかもしれない。text by 東ひさゆき
あの日、ロック後進国だった日本は、ロックがいかに自由でいかに美しいものであるのかを,初めて知ったのだった……。1971年9月23 日、キョードー東京が主催した「Rock Carnival ♯7」...
6月11日は「傘の日」、といえばやはり井上陽水「傘がない」。本日のコラムは当時、ホリプロで制作担当として現場にいた川瀬泰雄による「傘がない」誕生の知られざる経緯です。