2015年07月03日

ブライアン・ジョーンズはローリング・ストーンズを脱退して一か月後、1969年7月3日に自宅にあるプールの底に沈んでいるところを発見された。

執筆者:寺田正典

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7月3日はブライアン・ジョーンズの命日。ローリング・ストーンズを脱退して一か月後、1969年同日、自宅にあるプールの底に沈んでいるところを発見された。アルコールとオーバー・ドラッグによるものとされているが他殺説もあり、その死因は未だ謎である。27歳という若さであった。


ビル・ワイマンがBBCラジオでローリング・ストーンズ結成の経緯について物言いをつけた、ということが大きな話題となっている。今年2月にロンドン近郊のダートフォード駅に設置された「ミック・ジャガーとキース・リチャーズが1961年10月17日、ロンドン近郊のダートフォード駅の2番線ホームで再会し、そこからローリング・ストーンズを結成することになった」と記された銘板の文章まで変更せざるを得なくなったというから、ことは尋常ではない。ビルによればストーンズは、あくまでブライアン・ジョーンズが結成を目指したブルース・バンド構想が元にあり、彼がメンバー一人ずつに声をかけ、ミックやキースもそれにより集められたグループの「一員」に過ぎなかった、というのだ。


ビルはストーンズのオリジナル・メンバーではあるものの、後から加わったメンバーであり、彼らのライヴ・デビューとなった1962年7月12日のマーキーでのギグにも参加していない。しかし彼は記録魔として知られており、ストーンズに関する資料も広範に収集している人物。恐らくそれらの資料を駆使し、他のメンバーから当時聴いた話も交えて、すでにグループ結成の経緯を自伝『ストーン・アローン』('90年)の中でまとめている。


改めてその本をチェックしてみると、実際にはストーンズは、ブライアン・ジョーンズがポール・ボンド(ジョーンズ)、ジェフ・ブラッドフォードとブライアン・ナイト(後にブルース・バイ・シックス)らとの交流の中で目指したブルース・バンドと、ミックとキースが出会い、そこにキースの友人ディック・テイラー(後にプリティ・シングス)が加わることによって生まれたリトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルー・ボーイズ、その二つの流れが「合体」したかのような結成過程が読み取れる。ただし重要なのは、ブライアンが『ジャズ・ニュース』'62年5月2日号に出した募集広告で、それを見てグループのオリジナル・ピアニストだったイアン・スチュアートが加わり、同じ頃にアレクシス・コーナーのライヴで顔見知りとなっていたミックとキース、そしてディック・テイラー(彼が抜けた穴を埋めたのがビル)が加わるという形となっている。“募集”する側に立っていたのは確かにブライアンだったのだ。


そんな経緯を受け、デビュー当時のストーンズのリーダーでありスポークスマンであったのはブライアンだったし、デビュー・ライヴに際しグループ名を考えたのも彼。ブライアンのブルースへのピュアな情熱はバンドの音楽的な核でもあった。そこにさらに付け加えたいのが、ブライアンのあまりにも破天荒な生き様だ。バンドを始動させる二十歳の時点で、すでに3人の異なる女性(うち一名は14歳で出産、一名には夫がいた!)に3人の子供を産ませていたという彼は、当時ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていた優等生ミックなどとはまるで“別世界”の荒んだ生活を送っており、ビルに言わせると≪「セックス・ドラッグス&ロックンロール」というフレーズがおれたちの辞書に組み込まれるずっと以前に、彼はこの3つのカテゴリーをすべて完璧に代表していた≫のだという。


やがてストーンズは、マネージャーに就任したアンドリュー・オールダムの方針もあり、曲を書くミックとキースを中心としたバンドへと変わっていくが、ブライアンのブルースへの熱情と、その破滅的なまでにワイルドな存在感がなければローリング・ストーンズは生まれなかったし、生まれていたとしてもお馴染みのあの「ならず者」的イメージを持ち得ていなかったであろうことは確かだ。



ザ・ローリング・ストーンズ

ブライアン・ジョーンズ

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