2019年02月28日
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2019年02月28日
「ブライアン・ジョーンズを語らずして、ストーンズを語るなかれ」と高校生の時に友人から言われた言葉を思い出す。当時は、音楽情報も少なく、その意味がよく理解出来ず、ストーンズ自体にもさほど興味が湧かなかったのだが、その後、10数年経過した頃になって、初期ストーンズのレコードを朝から晩まで夢中で聞くようになり、マンディ・アフテルの書いた「Death Of A Rolling Stone-The Brian Jones Story-(1982年発行)」(邦訳「ブライアン・ジョーンズ 孤独な反逆者の肖像」訳/ 玉置 悟)などの関連図書や雑誌を読み込み、俄然興味が湧いてきたのだった。それまで見落としてきたものを発見したような奇妙な高揚感がわき起こった。
ブライアン・ジョーンズ(本名;ルイス・ブライアン・ホプキン・ジョーンズ)は戦時中の1942年2月28日の寒い日に、英国のチェルトナムで生まれた。父親はルイスと言い、仕事は航空関連の技術者だった。余暇に趣味で合唱隊で歌い、また鍵盤楽器を弾いた。母ルイザはピアノとオルガンを教える先生だった。3歳下の妹バーバラがおり、後にピアノとバイオリンの奏者になった。言わば、ヒエラルキーにうるさい英国の中産階級の平凡な、音楽的に恵まれた家庭に育った。ブライアンは母親からピアノ演奏や音楽理論などを学んだようだ。後に30種以上もの楽器を即座に演奏する音楽的素養は、チェルトナムで培われたと思われる。
チェルトナムはロンドンの西方約160Kmに位置し、伝統を重んじる保守的な街であった。幼少時、ブライアンは国語と音楽の成績がよく、優等生であった。しかし、集団的行動を嫌い、スポーツを好まず、一人でラジオやレコードを楽しむ孤独癖があった。そしてゆっくりと異変は起きた。それは多分に誰にでもある思春期特有の反抗心と旺盛な好奇心、そしてリズム&ブルースに起因している。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムス、ハウリン・ウルフに取り憑かれた。(ブルースには反抗心と悲しみが込められている)そして事件は起きた。チェルトナム中等学校での学校行事で些細な揉め事を起こし、停学処分を受けた。それを契機に、さらに内向的で卑屈になり、問題児となってゆく。この頃、ブライアンには、道徳観念や社会的規範は稀薄だったと推測される。さらには在学中の16歳の多感な時期に、14歳の少女を妊娠させた。しかも二人もだ。未成年で私生児が二人である。まるで絵に描いたような見事な異端児である。それで学校と世間から放擲された。当然の事ながら、知能指数が高く、将来は学者にでもなるだろうと考えていた父親のルイスは呆れ果て怒り狂い、隣近所での評判を気にした母ルイザも困惑し、結果追いつめられたブライアンは家を出ざるを得なかった。そしてヒッチハイクをしながらあちこちを放浪し、ギターとハーモニカで路上演奏をし、日銭を稼ぎながら、仕事を転々としつつも、やがて行き詰まり、チェルトナムに舞い戻る。(そこで偶然にも地方巡業していた師匠アレクシス・コーナーに出会う事になる)しかし、チェルトナムにはもはや住む事は難しくなっていた。父親ルイスには、ブライアンが金髪の可愛い我が子ではなく、厄介な悪魔の子に見えたようだ。
20歳になったブライアンは、英国ブルース界の巨匠アレクシス・コーナーに導かれ、ロンドンに引っ越し、紆余曲折を得て、ミックやキースと出会い、ローリング・ストーンズを結成する事になる。自分のバンドを結成し、その「リーダーになる事」に情熱を注いでいたブライアンは、バンド名を決定し、意欲的に宣伝活動し、彼の人生で最も輝かしい幸福の時間を過ごしたのであった。それはデビューアルバムのジャケットに最もよく表現されていると思われる。他の4人と少しだけ距離を置きつつ、一人だけ白いYシャツで上着を着ていない。いかにも「バンド・リーダー」然としている。このジャケットはデビュー当時のブライアンの野望を如実に反映していると思う。
しかしながら、生来「孤独なエピキュリアン」だった彼は、次第にバンドに疎外されるようになっていった。それは当初、ストーンズは憧れの「R&Bのカヴァー曲」だけを演奏していたが、マネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムの「自作曲を演奏しなければ、ビートルズのように成功しない」という主張を受け入れて、ミックとキースは必死で自作曲の修練を始めたからだった。だが、ブライアンには「自作曲を創りまとめあげる」能力と興味はあまりなかった。(これには異説もあり、ブライアンの創った曲に対してミックとキースは無視したというものだ)
バンドには共同的意思と結束力、そして未来への展望が必要だった。とりわけ1965年にミックとキースが作詞作曲した「サティスファクション」の爆発的大ヒットで、事態は大きく変化した。世界的な知名度をあげた頃に、皮肉にもバンドの中でブライアンは大きな失望を感じないわけにはいかなかった。ライヴ・パフォーマンスでリーダーである自分より余計にスポット・ライトを浴びるミック・ジャガーに嫉妬し始めた。自分が思い描いていたバンド・イメージと離反した現実に、一人で苦悩するようになっていった。自分の「リーダーとしての立ち位置の喪失感」に悩み始めたのだ。ミックとキースの創作した楽曲に、どのように対峙し演奏すべきか、煩悶した。それは自分自身への根源的な問いかけでもあっただろう。ただ彼には、様々な楽器を即座に演奏し、与えられた楽曲に装飾を施す卓越した才能があった。編曲において、素晴らしいアレンジ能力を発揮したのであった。そして、バンド・リーダーとしての資質のなさにあがきながら、その自己否定的な状況に、静かに忍び寄ってきたのが大量の「ドラッグと女性」だった。それは自己破滅回路の入り口だった。ストーンズが次々にヒット曲を生み出し、有名になればなるほど、ブライアンは苦悩のどん底に落ちていった。言わば「ブライアンのパラドックス」である。それは遅かれ早かれ死に至るほど深く重い、パラノイア的な性格のものだった。
性的にも早熟なブライアンは、多くの女性と自堕落な恋愛を重ね、暴力的で情緒不安定で、不安神経症で、芸術家にありがちな感情の起伏が激しく、陰険で意地悪なジョークが好きだったようだ。次第に麻薬に溺れ、モロッコを愛し、奇矯なファッションに身を包み、ギターを持てないほど衰弱していった。やがてコッチフォード・ファームの自宅のプールで溺死体となって発見された。27歳の若さだった。だが、彼が着想し、この世に蒔いたローリング・ストーンズという種子は、受け継がれ今でも見事に大きな花を咲かせている。その存在と功績は、賞賛に値する。現在のストーンズの中に、ブライアンの遺伝子をいくつも発見する事が出来るのである。
ザ・ローリング・ストーンズ『ザ・ローリング・ストーンズ』「サティスファクション」ジャケット撮影協力:中村俊夫&鈴木啓之
≪著者略歴≫
池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。
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