2017年12月11日
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2017年12月11日
1968年は、長いストーンズの音楽活動の中でも実に意欲的で革新的な年だった。今から約50年前の話である。まずは前年にサイケな名作アルバム『サタニック・マジェスティーズ』をリリースし、年が明けて間髪を入れず『ベガーズ・バンケット』を制作するために、メンバーは頻繁にロンドンの「オリンピック・スタジオ」に集結した。そして、2月にはサウンド・プロデューサーにジミー・ミラーを採用する事をミック・ジャガーは発表する。今になって思うのだが、この「ジミー・ミラーの登用」が、なにより画期的だった。同時にミックの視覚的映像的才能が、激しく開花してゆく時期でもあった。
25歳のミックはこの年、楽曲制作をこなしつつも、同時に映画『パフォーマンス(ニコラス・ローグ監督)』の主役を演じ撮影し、その上「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」のプロモ映像の制作撮影、そして映画『ワン・プラス・ワン(ジャン・リュック・ゴダール監督)』の撮影と立て続けに映像カルチャーに関わりを持ち、その才覚を錬磨し、成長してゆくのだった。この頃、ミックは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」はプロモ映像の効果もあって大ヒットしたと語っている。テレビの普及によって映像文化が社会に広がっているのを充分に感知していたのだろう。
一方でブライアン・ジョーンズは3月大麻不法所持で再度逮捕され、裁判にかけられ罰金刑になるなど暗澹たる時間を過ごしていた。同じ3月、チャーリーに長女セラフィーナが誕生した。育児に夢中だったのではないか(そうだ、当時のミックの伴侶、マリアンヌ・フェイスフルも妊娠したが、残念ながら流産したという悲しい出来事も起きている)。ビル・ワイマンは、無名のバンド「ジ・エンド」の音楽プロデュースをしたり、課外活動に余念がなかったようだ。そして、キースはこの時期、自室にこもり、まさに「サウンド・マニア」とも言うべき姿勢で、ギターサウンドのみならず、ベースは勿論のこと、作詞作曲から歌唱の練習やコードやハーモニーやエコーを研究したり、壁や食器を叩いたりと新たなサウンド創作(『Let It Bleed』の制作?)に夢中だったようである。
ある時ミックは、The Whoのピート・タウンゼントと雑談をしているうちに、『ロックンロール・サーカス』の原案を着想したようである。しかし、この話は当初「実際に、ストーンズとフーとで組んで、サーカス団のように全米を巡業してまわり、それを映画にする」という構想だったのが、ブライアンが大麻不法所持による保護観察処分中で米国に入国出来ない可能性や資金的な問題で縮小変更を余儀なくされ、英国BBC関係者にこの企画を持ち込んだ所、様々な紆余曲折の末、ロンドン北西のウエンブレーのインターテル・スタジオでテレビ向けロックンロール・ショーを開催し撮影する事になったようである。ただ、この年、ストーンズはアルバム『ベガーズ・バンケット』を完成して、ジャケット問題でレコード会社と揉めて発売を延期していた事を忘れてはならないだろう(つまり、ミックは基本的に『ベガーズ・バンケット』の販売プロモーションを考えていたと思われる)。それと前年のビートルズの映画『マジカル・ミステリー・ツアー(1967年12月放送)』の影響は否定出来ないだろう。
さて、正確には’68年12月10日から13日の早朝までかけて撮影は行われたようだ。抽選で観客を募集し打ち合わせし仮装させたり、リハーサルを重ねたり、実際のサーカス団に演技させたり、米国人のタジ・マハールのロンドン滞在時間が英国の音楽ユニオンに制限されたりと問題が噴出し、予定より大幅に時間がかかり、現場はてんてこ舞いだったようだ。最後のストーンズの演奏場面では、みんな疲れ果てくたくたになっていたとも言われている。疲弊したストーンズの演奏が気に入らないので、フィルム編集段階で、ミックはお蔵入りにしたと言われている(また、ちょっと肥満気味のブライアンの衰弱した姿を見せたくないという意見もあったらしい。僕は素晴らしいと思うのだが、どうなんだろう。蛇足だがストーンズは当時の未発表曲である「You can't always get what you want」を披露している)。
話は飛ぶが、僕は1991年にチャーリー・ワッツ・クインテットのライヴを観にロンドンに行った時の事である。ロニースコッツでのライヴが終わってから、ストーンズの敏腕女性マネージャー、シェリー・デイリーさんとバンド・メンバーたちと食事をした。その時に、シェリーは僕の正面の位置だった。談笑しているうちに不意にシェリーが「ゆうじ、あなただったら、今、ストーンズに何を望むの?」と質問して来た。その質問の真意を測りかねたが、ふと「今まで日本では観られない過去の映像」が頭に浮かんだ。それは最初『コック・サッカー・ブルース』だったが、タイトルに品がないので言い出せず、ついで浮かんだのが『ロックンロール・サーカス』だったのである。そこで「シェリー、僕は『ロックンロール・サーカス』が観たい」と言った。すると意外な答えが返って来た。「あら、そんなの、お安い御用だわ。明日、オフィスに来たら観せてあげるわ」との返事。一瞬、ためらったが「いや、そうではなくて、日本のファンの仲間みんなと観たいんだ」とちょっと偽善的な答えをしたのである。
するとシェリーは真剣な表情になり、つぶやくように言った。「あのムービーは権利関係が難しいのよ。ジョン・レノンが出ているでしょ。フーも出てるでしょ。クラプトンもね。今じゃみんな、なんと言うかしら。調べてみるわね」
するとなんと言う事だろう。その5年後の1996年、日本のレコード会社の折田育造さんが連絡して来て、「今度、うちでストーンズの『ロックンロール・サーカス』をリリースする事になったんだけど、ロンドンからの伝言で君に連絡してくれと言う事なんだけど、どういうこと?」と電話が来たのである。勿論、部屋で一人で跳び上がって喜んだのだった。「シェリーは忘れてはいなかった!」
≪著者略歴≫
池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。
1974年11月23日、ザ・ローリング・ストーンズの傑作『IT'S ONLY ROCK'N ROLL』が ビルボード・アルバムチャート1位を獲得した。“たかがロックンロール”と命名されたこの傑作...
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