2015年08月07日
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2015年08月07日
「今日は何の日?」なんてノリで調べてみると、今日8月7日は「8(バ)7(ナナ)」という語呂合わせで「バナナの日」なんだそうな。「夏バテしやすい時期を栄養価の高いバナナを食べてのり切ろう」というのが、制定した『日本バナナ輸入組合』の大義名分というか理屈らしい。まぁ、筆者が子供の頃はさすがに「病人だけが食べられる」と言われるほどの高価で貴重なものではなかったが、それでも今ほど安価であまり存在感のない果物ではなかった。そして、筆者と同じようなアラカン世代にとってバナナで連想する歌といえば、やはり「バナナ・ボート」なのではないだろうか?
ジャマイカ系米国人シンガー、ハリー・ベラフォンテの1956年の大ヒット曲「バナナ・ボート(Banana Boat Song)」は、元々ジャマイカで古くから港湾荷役夫たちによって歌い継がれてきたワーク・ソング。発売元の米国大手レコード会社RCAは、本来はジャマイカ民謡のひとつ「メント(労働歌)」に属するこの歌を米国人にはカリビアン・ミュージックの総称として馴染みのある「カリプソ」として売り出したので、ハリー・ベラフォンテは日本でも「カリプソ男」の異名で知られるようになった。
翌1957年、さっそく日本でもカヴァー盤がリリースされた。歌っているのは18歳の新人歌手・浜村美智子。1938年10月3日大阪生まれの彼女は中学卒業後に上京。昼は高校に夜はティーブ釜萢(ムッシュのお父さん)主宰のジャズ学校に通い、やがてバッキー白片とアロハ・ハワイアンズ、沢田駿吾とダブル・ビーツ等の専属歌手としてキャバレーや米軍キャンプに出演し始める。同時にその日本人離れした肢体と野性味あふれるクールなルックスが注目され、人気モデルとしても活躍。レコード・デビューのきっかけも、ビクターのスタッフが週刊誌に載った浜村の記事を観て興味を持ったことからだった。
カリプソ男のヒット曲のカヴァーということで、当然浜村も「カリプソ娘」として売り出されていく。自らのアイディアで、長い髪に赤の部分染めを施し、麻のコーヒー袋を廃物利用した手製のサック・ドレスに裸足というスタイルが彼女のトレード・マークとなるが、これは当時としてはかなりインパクトの強いヴィジュアルであった。そして、これまた大胆なセミヌード写真 (撮影・中村立行)を用いたジャケット(45回転17cmシングル)の効果もあってか、浜村盤は発売1カ月で18万枚を超えるセールスを記録。最終的にはミリオンセラーの大ヒットとなったのである。
カリプソ娘として、まさに時代の寵児となった彼女は「バナナ・ボート」ヒット中の57年9月、御本家ハリー・ベラフォンテ盤の発売元であり、当時エルヴィス・プレスリーの怪物的連続ヒットで絶頂期にあった米RCAの招きで訪米。CBS-TV『The Big Record』に出演し「バナナ・ボート」を歌った他、ニューヨークのRCAスタジオでデヴィッド・リー楽団をバックに「Paradise」「That’s Love」「What Is This Thing Called Love(これが恋かしら)」「Happiness」の4曲(「That’s Love」「Happiness」は浜村のための書き下ろし新曲)をレコーディングしている。この4曲を収録したEP『JAPAN’S TEEN QUEEN WITH A BEAT』は米RCAから全米発売されているが、いち早く海外録音&メジャー・レーベルからの海外発売を成し遂げた日本人歌手として、浜村美智子はナンシー梅木と並ぶパイオニア的存在と言えるだろう。
その後も順調に歌手活動を続ける傍ら、山本嘉次郎監督の映画『ジャズ娘に栄光あれ』(58年1月公開)に主演したのをきっかけに女優としても活躍。63年にプロボクシング東洋ライト級チャンピオンだった小坂照男と結婚したのを機に芸能界を一時引退したものの、65年にはTVドラマ『忍者部隊月光』(フジテレビ系)に悪の組織の女幹部役で出演、女優活動を再開する。当時このドラマを毎週欠かさず観ていた小学生の筆者は、敵役ながらもその妖艶な美しさに惹きつけられていく自分を子供心にも感じたものである(笑)。
72年にはNHK『思い出のメロディー』に出演したことがきっかけとなり、約10年ぶりの新曲「黄色いシャツ」をリリース。オリコン60位まで上っている。この曲は、現在K-POPのパイオニアのひとりとも言われている韓国のシンガー・ソングライター、ソン・ソグ(孫夕友)のヒット曲のカヴァーで、これを契機に韓国民間放送協会からの招待で訪韓した彼女は、韓国のテレビに生出演した初の外国人として大きな反響を呼んだのである。
写真提供 芽瑠璃堂
http://www.clinck.co.jp/merurido
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