2016年08月25日
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2016年08月25日
戦後まもない時期に全国に響き渡った「東京ブギウギ」を筆頭に数々のヒットを重ねた“ブギの女王”こと笠置シヅ子の明るい歌声は、敗戦に打ちひしがれた日本人の心をどれだけ励まし癒したことだろうか。日本のポップスの父と言われる服部良一が紡いだ服部メロディの最高の表現者として活躍し、かの美空ひばりも彼女の物真似からその栄光の歴史をスタートさせたのである。印象的な関西弁は生まれてすぐに移り住んだ大阪で育ったことによるが、出生の地は四国の香川県であった。誕生したのは大正3(1914)年8月25日のこと。生誕100年から既に2年が経った。85年に70歳でこの世を去ってからも早30年もの月日が流れたことになる。
小学校卒業後、日本歌劇学校の前身である松竹楽劇部の養成所に入った亀井静子は、三笠静子の芸名で初舞台を踏んだ。その後、昭和10年に笠置シズ子と改名する。服部良一との運命の出逢いは13年に旗揚げされた松竹樂劇団でのことで、彼女の才能に惚れ込んだ服部と組んでジャズ歌手として売り出しが計られた。コロムビアの専属歌手となり、「ラッパと娘」「ホット・チャイナ」「アイレ可愛や」などをリリース。抜群のスウィング感でスター街道を歩み始めるが、やはりその名を全国に轟かせたのは、服部良一が曲を供して大ヒットした「東京ブギウギ」だろう。昭和22年10月、有楽町にあった日本劇場で開催されたショウ『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で披露された後、翌年1月にレコードが発売されるとたちまちヒットに至った。その後も「ヘイヘイブギー」「ホームラン・ブギ」「買物ブギー」などのナンバーを次々にヒットさせて“ブギの女王”の異名をとる。同じコロムビアから美空ひばりが「河童ブギウギ」でデビューしたのは24年7月のことだった。
大衆に支持されたスターには当然の如く映画界からもお呼びがかかる。戦前にも出演作はあったものの、本格的な銀幕への進出は戦後から。「東京ブギウギ」が主題歌となった『春の饗宴』(22年)や、舞台でも共演の機会の多かった榎本健一主演の『歌うエノケン捕物帖』(23年)などでその快活なパフォーマンスを見せる姿がフィルムに残されているのは実に貴重である。とはいえ、現在でも視聴可能なものは少なく、その中で昭和23年に公開された黒澤明監督作品『酔いどれ天使』はソフト化されているため最も容易に接することが出来る作品のひとつ。劇中、歌手役で登場する笠置がエネルギッシュに披露する「ジャングル・ブギ」は監督の黒澤明の作詞による。当初黒澤が書いた“腰のぬけるほどの恋をした”という歌詞に対して、「こんなえげつないの、わて歌われへん」と笠置が難色を示したことで、やむなく“骨の溶けるような恋をした”にと書き改められたエピソードは一部ではよく知られている。映画も傑作だが、笠置の凄いパフォーマンスも一見の価値あり。映画では高峰秀子の歌でヒットした『銀座カンカン娘』が代表作に挙げられよう。主題歌の「銀座カンカン娘」を笠置が歌うシーンも見られる。
“シズ子”から“シヅ子”へと正式に改められた時期は定かではなく、23年の「大阪ブギウギ」SP盤のレーベルでは笠置シヅ子となっているのに、25年の「買物ブギー」ではまた笠置シズ子とまちまち。つまりは“クレイジーキャッツ”と“クレージーキャッツ”の様に結構アバウトだったのではなかろうか。ホームグラウンドの日劇のショウでは、26年5月の『ヘイ・オン・ジャズ』、同年12月の『笑う寶船』共に笠置シヅ子とクレジットされている。この辺になるとだいたい“シヅ子”の方が一般的になっていたとおぼしい。
レコード、映画、舞台と八面六臂の活躍を見せ、戦後復興の象徴とまで云われる存在だった彼女が歌手活動を休止したのは、昭和30年代に入り、40代を迎えて間もない頃。以降は女優・タレント業に移行し、再び歌うことはなかった。全盛期の彼女を知らない世代にとって、笠置シヅ子といえば、TBS『家族そろって歌合戦』の審査員であり、台所用クレンザー「カネヨン」のコマーシャルに出ていた大阪弁のおばちゃんという印象が強いかもしれない。
東宝の看板女優だった司葉子の芸能界入りに際して、笠置シヅ子が一役買っていたことはあまり知られていないだろう。鳥取の名家に生まれた司葉子が東宝からスカウトされながらも家族から反対されて迷っていた時、義兄の知人であった笠置のアドバイスを受けて、一本だけの条件で映画出演を承諾し、池部良の相手役を務めたのである。結局、映画の面白さに目覚めた司葉子はさらに出演を重ねて、一時期の東宝を代表するスターへと成長を遂げた。笠置の存在なくしては、鈴木英夫監督の『その場所に女ありて』や、成瀬巳喜男監督の『乱れ雲』といった名作も世に送り出されなかったことになる。
笠置の没後もテレビドラマや舞台で多くの女優やタレントが彼女の役を演じてきた。今年になってからもNHKのドラマ『トットてれび』でEGO-WRAPPIN'のボーカル・中納良恵が「買物ブギー」を歌って善戦を見せている。が、最近のテレビで最も笠置の歌とパフォーマンスを再現していたのは、ミラクルひかるによる絶品の物真似だと思う。本人が見たらきっと喜んだに違いない。
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