2015年11月07日

「愛の讃歌」「バラ色の人生」「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」「ラストダンスは私に」という曲から思い浮かぶ歌手といえば…本日は越路吹雪35回目の命日となる。

執筆者:北中正和

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本日、11月7日は越路吹雪の命日。今年で没後35年となる。


宝塚出身の俳優は数多い。歌手になった人も少なからずいる。しかし宝塚出身者で歌謡曲歌手として大成した人は意外に少ない。


宝塚の訓練で身につけたうたい方や演技は、宝塚の中で魅力を発揮するように最適化されている。それは花園で育てられたある種のお行儀のよさと言えるだろう。しかし外に出て活動するなら、表現方法を微調整する必要がある。その匙加減が難しいのだ。


越路吹雪は数少ない例外だった。俳優としても活躍したが、どちらかといえば、歌手として、また、ミュージカル俳優のパイオニアとして、20世紀中期の日本の音楽界で大きな星のように輝いていた。


彼女は第二次世界大戦中に宝塚に入り、戦争末期に男役として人気を集めた。戦後もしばらく宝塚にとどまったが、在籍中から劇団外の映画やミュージカルに出演し、歌手としてレコードを出していた。


ぼくがテレビで彼女をはじめて見たのは1960年だっただろうか。当時の彼女は紅白歌合戦の常連で、ドレス姿でシャンソンをうたうことが多かった。和服姿で「筏流し」をうたう彼女に大人達が騒ぐのを聞いて、宝塚時代の当たり曲であることを知ったのも、そのころのことだ。


なぜシャンソンだったのか。


宝塚は30年代からフランスのシャンソンと縁のある劇団だったから、彼女にはおなじみの音楽だった。しかも50年代から60年代にかけては、シャンソンが巷で静かなブームを呼んでいた。銀巴里をはじめとするシャンソン喫茶ができ、NHKではシャンソンの番組がはじまっていた。そんな時期に、パリ遊学から戻ってきた石井好子や高英男らと並んで、彼女はシャンソンでヒットを出していたのだ。


「愛の讃歌」「バラ色の人生」「セ・シ・ボン」「サン・トワ・マミー」「雪が降る」「ろくでなし」など、彼女の歌を通してシャンソンに出会った人は、団塊の世代を中心に少なくないと思う。その訳詞を手がけ、後に作詞家として大活躍することになる岩谷時子は、宝塚時代からスタッフとして彼女を支えた親友で、独立後も一緒に上京して東宝で働きながら、ボランティア的に彼女のマネジャーをつとめた。岩谷の訳した「愛の讃歌」の「あなたの燃える手で…」という歌詞と越路吹雪の声は、多くの人々の記憶の中でセットになっているにちがいない。


「雪が降る」や「ろくでなし」を作ったアダモは、日本でも人気が高かったが、それも彼女のカヴァーがあったからこそだった。アダモはいまも元気に活動していて、10年ほど前の来日時のステージでも彼女に感謝の言葉を捧げていた。


「ラストダンスは私に」も彼女がうたってヒットしたのでシャンソンと思われることが多い。たしかにフランス語ヴァージョンもあるが、もとはアメリカのR&Bコーラス・グループ、ドリフターズのヒット曲だ。男性を掌の上で遊ばせるような、こういう姐御肌の歌をうたわせると彼女の右に出る人はいなかった。


彼女はシャンソン以外にも、イタリアやポルトガルや中南米など、数多くの外国曲をうたっていた。いまでいえば一人ワールド・ミュージックだったともいえる。


歌謡曲では「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー」が代表曲ということになるだろうか。映画『銀座のお姐ちゃん』で恩師仁木他喜雄作曲の「別れても」をうたった場面も忘れられない。


伝説的な日生劇場でのミュージカルを含めて、彼女は洋楽的な素養を歌謡曲に昇華して、はなやかな感覚でうたい続けた。その感覚は、戦後の貧困と混乱と解放感、占領軍や外国文化の流入、どん底からの経済復興、労働運動や右傾化する政治思潮などが渦巻く社会の中から時間をかけて蒸留されてきたものだった。日生劇場ではいつも緊張のあまり、岩谷時子に励まされないと、ステージに出られなかったというエピソードは、彼女が背負っていた重荷を物語っているような気がする。


子供向けの音楽が圧倒的に多く、内向き傾向が強いいまの日本社会の状態が続けば、彼女のような歌手は、もう二度と現れないかもしれない。

越路吹雪

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