2015年11月03日
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2015年11月03日
映画黄金時代の大スターは、みんな歌っていた。その中でも日活映画は所属スターのレコード発売に熱心で、石原裕次郎、小林旭、吉永小百合、浅丘ルリ子、渡哲也らはリリース枚数も多く、歌手としても大ヒットを飛ばしている。ことに小林旭の場合、映画と歌は不可分で、映画でみせる日本人離れした無国籍カラーは、歌でも破格のスケールをもって展開されていった。
大ヒットした主演映画「渡り鳥」シリーズでは、主題歌、挿入歌に、その映画の舞台となる地にまつわる民謡が選ばれており、会津ロケを敢行した『赤い夕陽の渡り鳥』では「アキラの会津磐梯山」、北海道が舞台の『大草原の渡り鳥』では「アキラのソーラン節」といった具合で、映画とともに歌もヒットする。多くの民謡カヴァーに“アキラの”とついているのはスターの証明であり、独特のスカーンと抜けた甲高い歌声も民謡と相性がよく、これに現代的なアレンジを施したことで、民謡や書生節に新たな魅力を吹き込んだ。
60年9月10日に発売された『南海の狼火』主題歌の「さすらい」、61年10月5日発売の『渡り鳥北へ帰る』主題歌「北帰行」といった叙情性の高い作品では、民謡シリーズから派生した放浪、望郷の念が、よりしっとりした情感を滲ませて歌われ、新たな魅力を発揮した。こういった叙情派路線の一方で、トレンドのリズムを取り入れる流行歌手としてのスタンスも忘れていない。62年3月の「アキラでツイスト」や、63年1月の「アキラでボサ・ノバ」などでの進取の気風は、58年11月、ロカビリー・ブームの最中に発表された「ダイナマイトは百五十屯」が最初。この曲は、現在では日本初のロックンロールのヒット曲と言われている。
こちらのリズム歌謡路線も、日本コロムビアからクラウン移籍後に独自の拡がりをみせる。移籍第1弾「自動車ショー歌」では、モータリゼーション時代を見込んで星野哲郎が車の名前を並べたユニークな歌詞を書き、歌手から作曲家に転向したばかりの叶弦大が陽気でリズミカルなメロディーを施した。この大胆な発想は、コロムビア時代後期の64年3月20日に発売した「恋の山手線」で、駅名を駄洒落で繋げた歌詞を念頭に置いてのものだろう。日活二大巨頭の一方、石原裕次郎の歌が都会派のムーディーな世界なら、小林旭はこういったノベルティ・ソングも軽やかに歌いこなした。そのすべてが“アキラ節”で問答無用のカッコ良さ。あのハイトーンには、ポップ・シンガーとしての天賦の才が宿っていたとしか言いようがない。
70年代中期の小林旭は、ポップなリズム歌謡と寮歌・叙情派路線の二刀流に加え、新たな第三軸が現れてくる。それが「昔の名前で出ています」にはじまる夜のネオン演歌路線だ。この時期の小林旭は日活を離れ、東映の『仁義なき戦い 代理戦争』(73年)から3作続けて演じた武田明役で圧倒的な存在感をみせつけたが、同時に事業の失敗で多額の借金を抱えていた。その返済のため、全国のキャバレーを回って「昔の名前~」を歌い続け、75年リリースの同曲は77年に入って火がつき、同年のオリコン・チャートでは年間5位となるロング・セラーを記録。女言葉で歌われるホステス演歌の味わい深い説得力は、日活末期に主演した夜の盛り場が舞台の「女の警察」シリーズにイメージが重なるが、この演歌ラインは翌78年に「必殺シリーズ」の主題歌「夢ん中」という傑作を生んだ。
年齢を重ね、映画での役柄とともに歌でも拡がりをみせていった小林旭が、その集大成ともいえる楽曲を発表するのは1985年。アキラ・フリークであった大滝詠一が作曲した「熱き心に」である。
大滝が「さすらい」と「惜別の歌」を掛け合わせた壮大なメロディーに、阿久悠が映画俳優・小林旭像を総括するかのような詞を提供。転調後のサビに登場する「オーロラの空の下」の一節に、その無国籍性が集約されている。前田憲男のストリングス・アレンジを聴いた小林旭は、西部開拓史が頭に浮かんだと述懐している(『増補新版 大瀧詠一』河出書房新社)が、この破格のスケールはこの男でしか出せないものだ。その後、大滝は自身(と太田裕美)の「さらばシベリア鉄道」を小林に歌ってもらうことになるが、ここで小林は従来の譜割りと大きく異なる独自の歌い回しを披露し、タイトル通り「アキラのさらばシベリア鉄道」が生まれた。
日本で唯一、無国籍が様になる男は、歌の世界でも破格のスケールを持っていた。小林旭ワールドは、まさしく歌と映画が不可分な関係にあるのだ。
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