2016年01月21日
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2016年01月21日
カルメン・マキ&OZのデビュー・アルバム『カルメン・マキ&OZ』が発売されたのは41年前、1975年1月21日のことである。
73年成人の日、僕は大学入試に切り替え予備校の全国模擬試験を受けていた。年末から急に受験勉強始めたのだ。母は嬉しそうだった。その後OZのレコーディングが始まるとは夢にも思っていなかった。
高校2年の夏、僕は学生運動に身を投じていた。毎日のように生徒会館に通いガリ版をすり街頭デモや学内に、チラシや自主パンフを配っていた。終にはNHKの若者向け番組にも出たことあるくらい学生運動やっていた。NHKとはそれからずっと縁がある(笑)。母はとても狼狽していた。担任の教師が何度も自宅に来ていたからだ、大変心配してくれたのだろう。その頃春日君と知り合った。僕は生徒会館の1階新聞部室で新聞作り、彼は2階の軽音楽部室でギターを鳴らしていた。ある日あんまりにもデカイ音だったんで怒鳴り込みに行ったことがある。天井の塗装がバラバラと落ちるくらい振動が大きい。「これでは印刷できんではないか!」2階に上がりドアを開けたら目一杯の音、抗議ができないではないか音でかすぎて。それが春日君とジミヘンドリックスとの初めての出会いだった。「何の音楽なのだろう?」
やがて彼は高校をやめていった。「俺はプロになる」「えー。やめとけよ、卒業してからにすれば〜」。が、それから彼の姿を学内で見ることはなくなった。やがて彼がプロになったという噂を聞いた、そうか卒業記念ライブでもやってやろうか。数人の仲間と玉川区民会館でコンサートをやった、チケットを作り同級生みんなに呼びかけた。借りる責任者はその担任の教師にやってもらった(礼)。僕らはみな18歳だったが運転免許証は誰も持っていなかった。アンプは生徒会館からリヤカーで運んだ。今や誰もリヤカーなんぞ見たことないのではないだろうか、高校から会場まで長い道のりだった。みんなで押した。やっと辿り着き卒業コンサートが始まる、それがカルメン・マキ&OZだった。
初代のメンバーはベース鳴瀬喜博(後スモーキーメディスン)ドラムに樋口昌之(後CREATION)だった。鳴瀬さん大学生、昌之君は同い年だが、凄まじい超絶演奏だった。今ではこの2人が業界に入ってから一番古い先輩友、今でも仲良くしてもらっている。ついでにこの年からチャー達とも知り合った。それはさておき、確かオープンリールで録っていたはずだが再生機と共にどこかにいってしまった。カセットテープがまだなかった頃の話だ。残念無念だ、オープンリールの時代はもう来ないと思ったのだ、すいません。
母に勉強すると称して家の近くにアパートを借りて受験勉強にいそしんでいた6月の頃その日は突然現れた。霧雨の夜だった。1人の女がドアをノックした。一度開けたドアをもう一度閉めたような気がする。とても美人だった、TVで見た芸能人。
あとから春日がにょっきり顔をだし、「よぉ〜」と。それから僕らはよくやきとり屋に行くようになった。その頃の僕は、酒は一滴も飲めなかったのだが焼き鳥というものを食べたことがなかったのだ。初めての焼き鳥やは大人になった気がした。よくガード下の焼き鳥やに連れていってもらったものだ。そんな時「よぉ〜マネージャーやらない?」と誘われた。それが人生の転落の始まりだった(爆)。
その頃のOZは英語の歌ばかりだった。ちょうどその頃だったと思う日本語がロックに合うのか合わないのか論争が巻き起こっていたのは。僕には関係ない話だった、昼は予備校、夜はビヤホールやキャバレーでOZと共にいた。ライブハウスがない時代だ。カルメン・マキの名前は営業には強かった、僕は大きい音が出せるところなら何処でも入れた、昔のマキちゃんの歌は歌わないという条件であれば。その頃は頑として芸能界時代の歌は歌わないというのが彼女の高い意識だった。ひたすら英語のハードロックばかり歌っていた。仕事場は限られているがそれなりに楽しければつらい場末の仕事もあった。マキに会わせろと酔っぱらいに殴られたこともある、そう彼女は痩せても枯れても紅白出場歌手だった、しかも若くて飛び切り美人だった。今でいったらハーフのアイドルだね。僕はマネージャーの他に警備の役もついでに請け負うことになってしまった。何しろ目立つ、何処にいても大衆の目が彼女に注がれているのがすぐわかった。彼女の隣にいたらみんなに見られているなぁ〜と、まだハーフの娘がいない時代の話だ、仕方ない(笑)。
やがて鳴瀬君とマサユキはジェフベックのBBA来日の際追っかけで行ってしまったきり帰って来なかった(笑)。日本のボガード&アピスはこうしてあっさりいなくなってしまった。これでバニラファッジやカクタスのナンバーができなくなってしまった。僕も大学受験の日が迫っていた。何しろ現役の時1校も受験していなかったから。こりゃまずいかな、と思っていたところだった。
さていろいろ省略して、OZは続けるということになった。何遍も話合った、僕は続けるのだったら日本語でやろうとお願いした。どう考えても日本語の方が売れる、理由はそれだけだった。彼女は随分悩んでいたと思う、安易な歌謡ロックになるのがいやだったんだろう。日本にまだ本当の意味でハードロックに日本語のバンドがなかった時代だ。四人囃子は存在さえも知らなかった。
彼女は相当慎重に決意した。春日もオリジナル書かなきゃだめだとその決意は固かったのだろう、相当時間かけて曲を作ってきた。あら以外に難問であることに気がついた、詩は私か〜? そうか、3人だけになったんだもの。こりゃ大変だ。彼女の存在そのものが大きい、へたな作品できないな。「時には母のない子のように」とは又違ったバージョンか。うーーーーん、難しい超難しいではないか!
新しい女性像とは何だろう? 僕の頭の中はそれだけになった。受験用に買った大学ノートはすぐに詞の書きとめ帳になり僕はいつでも大学ノートを持ち歩くようになった。その頃女性解放や住民訴訟、国民総生産、列島改造とかの単語が行き交っていた時代だった。春日君が、曲ができたとわざわざ家までギターもって唄いに来た、ラジカセがあるのに。いやあったかな?
作品は「六月の詩」から始まった。マキちゃんはメロディーに日本語の詞をつけて歌うのが上手い。割り符が実に鋭く、詞とメロディーを上手く着地させる天才だった。僕が言ったら怒られるが、彼女自分の体のなかで解釈するのが早くて、独自のスタイルを持っている。これは誰もかなわないワ。
そうこうしてる間に僕は2回目の受験をまたパスしてしまった。世間ではドロップアウトと言っていたのだろうか。僕はロックで行こーと決めた、春日君と同じになってしまった(笑)。母は卒倒しかけた。僕もまだ若かったのだ。
「六月の詩」の発表は奇しくも6月に今はもうない青山タワーホールでやる事になった。そこからOZの快進撃が始まったような気がする。僕は作品がこんなにも出来がよいのか、苦労しただけあったなと、小さな喜びで震えていた。と同時に、「こりゃ家に帰れんな」。どうしようと思っていた。日本語の作品が少し溜まった頃でした、ほどなくレコーディングの話がきたのは。僕がようやく大学受験した後のことだった。んー、ぇ!? もうすぐ合否発表の73年春だった。
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