2018年10月08日
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2018年10月08日
RCAビクターの小杉理宇造ディレクターが走り回ってくれて、7月にリリースする桑名正博のシングル盤が、カネボウ化粧品のキャンペーン・ソングに決まった。前年ヒットした、矢沢永吉の「時間よ止まれ」(資生堂)を聴いたい時から、ロックミュージシャンにもCMタイアップ ソングありなのかなあ、とも思っていたが、桑名ともども多少戸惑っていた。
1972年に、ワーナーパイオニアから桑名正博は、「ファニー・カンパニー」というバンドのリード ヴォーカルとしてデビューした。ファニカン(ファニーカンパニー)は、内田裕也らと作った「日本ロックンロール振興会」の後押しもあって、日比谷の野音や渋谷公会堂で、キャロルらとロックンロールフェスティバルなんかをやって、『東のキャロル、西のファニカン』なんて言われたりして日本のロック シーンを疾走したが、2枚のアルバムを残して、74年に解散した。
その後桑名は、しばらくロッカーとして試行錯誤の時期があったが、1975年からソロ活動を開始。76年、RCAから、アルバム『Who are You?』で、デビューさせた。
が、成績はあまり振るわなかった。桑名の歌唱力に惚れ切っていた、小杉ちゃん(小杉理宇造)が、ロックシンガーとしての実力を、よりメジャーな日本の音楽シーンで試すべきだと、時のヒットメーカー筒美京平に引き合わせてくれた。京平さん(筒美京平)は、桑名の声と飾らぬ人柄と容姿に、「桑名くん、いいわね!」と、頭からのめり込んでくれた。
それで、出来たのが、「哀愁トウナト」(作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄)である。
松本 隆は、京平さんの推薦。松本のことは、「はっぴぃえんど」時代から知っていて、作詞家として「木綿のハンカチーフ」などは見事な作品だと思っていたが、まさか、桑名の詞を書いてもらうことになるとは。
京平さんの仮アレンジで出来あがって来た作品を聴いて、「これは、行ける!」と小杉ちゃんと眼を見交わしたのを覚えている。萩田光雄のアレンジも決まって、はじめ戸惑っていた桑名もヴォーカリストとして挑戦的な気分もあいまって、京平さんが眼を細めるほどの表現で歌い切った。最高の日本語のロック作品が生まれたと、いまでも思っている。
やるからには、徹底したいと、ルキノ・ビスコンティ監督の『山猫』の中に出てくるアラン・ドロンを見て、桑名を貴公子「若き獅子」というイメージにして、再デビューを演出したので、雑誌にも大きく取り上げられて、ラジオでも話題曲としてよく流れるようになった。間違いなく、中ヒットを狙える位置に来た頃のある深夜、内田裕也から電話が掛ってきた。いつもの酔った声で、「おまえは、桑名を芸能界に売ったのか!日本のロックを殺す気か!」と耳の向うで叫んでいた。「おれは、哀愁トウナイトは、ロックだと思うんだよね。裕也さん」と答えたら、電話が切れた。
時間がかかったが、20万枚のほどのヒットになりそうな段階で、77年9月、桑名が大麻で逮捕され、起訴される事件が起きた。懲役2年執行猶予3年という判決。
大阪に帰った桑名。1830年創業の廻船問屋「桑文」を引き継ぐ、桑名興業社長の桑名の父親は、これを契機に音楽業界を引退して、跡継ぎの修業に入ってもらいたい、と言う。
いっぽう、小杉ちゃんや京平さんは、罪は罪、才能は才能と割り切って、世間の晒し者になるという罰も受けたことだし、例え、執行猶予期間とはいえ、もう一度、活動を開始すべきだと言ってくれた。
もう、「これはリベンジだぜ!」と桑名に声をかけたが、ファニカンのロッカー桑名が大阪に戻って来たと、熱いファンが桑名を取り囲んでいる。時間が経つうちに、桑名も、もう一度、表舞台に立ちたい気になってくれたのだが、問題は父親。新地のクラブに呼び出され、「正博をどうする気だ?」と尋問された。「このまま天才シンガー正博さんを、埋ずめ者にしたくはない」と、言いあいになり、「桑名正博を日本一にするなら」という条件で、東京行きを赦してもらった。
「哀愁トウナイト」から1年後の78年7月に、筒美松本コンビで、「薔薇と海賊」でカンバックさせた。
続けて「サードレディー」「スコーピン」と、立てつづけにシングルをリリース。「サードレディー」が、新しいファンも獲得する中ヒットになって、「桑名正博&Tear Drops」というバンドを組んで、1,000から2,000キャパクラスのライブがやれるようになった。が、桑名の頭のなかには、いつもロッカー桑名正博のイメージがあって、ステージでも、素(す)の自分が出せるオリジナルを歌うことが多くなり、シングル曲が脇に置かれることがよくあった。それを指摘すると、「京平さんの曲には、いつも入りこめるけど、松本の言葉がいつも引っかかるんですわ」という。確かに、桑名は名家の出だが、16歳の頃にドロップアウトして、反社会的な視点を持つリズム&ブルースを目指して来た。松本隆は、小学校から大学まで慶應義塾で、青山育ち。彼の書く言葉が、桑名に苦手なことはよくわかる。
カネボウの新商品(口紅)のキャンペーン ソングをやることになった。
79年の3月だったが、曲が出来てきた。「セクシャルバイオレットNo.1」。タイトルからして、インパクトが尋常じゃない。曲も詞も行ける。これで、桑名の父親との「日本一の歌手になる」という約束が果たせそうな気がした。
桑名が、「うすい生麻(きあさ)に着替えた女は、くびれたラインが悲しい」という内容のあたまのところを指差して、「寺さん。うすい生麻って、何ですのん? こんな女、声も掛けたくないんやけど…」と言うものだから、確か、東神奈川の丘の上にあった、カネボウ化粧品部の工場に連れて行った。この商品(口紅)を開発しイメージを作った人たちに会わせたかった。クリエーターの彼ら彼女らが「こんな女のひとに使ってもらいたい」と、熱く言う言葉に桑名は、眼を輝かせた。
「セクシャルバイオレットNo.1」は、79年7月21日にリリースされ、10月8日、さだまさしの「関白宣言」を抜いて、オリコン ヒットチャート1位になった。
桑名正博『Who are You?』「哀愁トゥナト」「薔薇と海賊」「サードレディー」「セクシャルバイオレットNo.1」写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
≪著者略歴≫
寺本幸司(てらもと・ゆきじ): 音楽プロデューサー等。浅川マキ、桑名正博、りりィ、イルカ、下田逸郎、南正人など、多くのアーティストを手がける。桑名正晴の在籍していたファニー・カンパニー、解散後の桑名正晴のプロデュースに関わる。
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