2015年06月08日

「ヤング720」にアマチュアの高校生であったRCサクセションが登場

執筆者:森川欣信

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1969年6月8日、TBSテレビの朝の若者向け番組「ヤング720」にアマチュアの高校生であったRCサクセションが登場。後にデビュー・シングルのB面となる「「どろだらけの海」を演奏した。

はっきりした日にちは覚えてないのだが1969年の4月か5月だったと思う。

ある晴れた日、初夏を思わせる土曜日の放課後、僕と友人は赤坂TBSにいた。

TBS会館と言われるビルの上にこのテレビ局はあった、たぶん。

その日、僕と友人は 注)ヤング720の、とあるコーナーのオーディション会場にいた。

この番組のコーナーの正式名称を今では思い出せない。

アマチュア・バンド・コーナーと記憶しているが、僕の友人はソロでオーディションを受けに来たわけだ。

だから「バンド」という名称がこのコーナーについていたかどうかは判然としない。

そしてどのような経緯で友人がこのオーディションに応募したのか?? 全く思い出せない。

なぜ僕が同行したのかと言うと、その日友人が演奏し歌う曲を僕が書いたからだ。

つまり作者として僕は付き添ったわけだ。

まぁ、本音を言えば友人もひとりでは心細かったようだし、

僕もテレビ局のスタジオを見てみたかった。

きっと、シャープできびきび働いているスタッフがいるのだろう。

そういう大人の世界を体験してみたかったのだ。

友人は「殺し屋」と言う曲をギター1本で演奏することにしていた。

当時はベトナム戦争が激しさを増していた時期だったので、友人はこの僕のオリジナルを選んだのだ。

「オレは国で雇われた殺し屋だから」と言うフレーズで締めくくるナンバー。

兵士は殺人が公認されていると皮肉った、稚拙ではあったがそんなプロテストソング気取りの歌詞をでっちあげていた。

それは、ちょっとボブ・ディランの「North Country Blues」を激しくしたような曲調。

今聴いてもそんなに悪くないと自惚れている。

「オーディション会場」と張り紙がされているドアの前は薄暗い廊下だった。

このドアの向こう側にきっと友人や僕が夢見ているスタジオが存在しているのだ。

そんな事を考え緊張に震えた。

指定された時間をやや過ぎた頃、長髪の男がドアから顔を出した。

友人は名前を告げ、僕は自分のことをマネージャーですと紹介した。

僕らは男に促されるままその部屋に入った。

そこはスティールの事務机がコの字型に並べられた殺風景な会議室みたいな大部屋だった。

男は番組のADだと名乗った。「エーディー?」初めて聴く言葉だった。

このオーディションをまかされているみたいな事を言っていた。

名刺には「矢島」と書いてあった。下の名前は忘れた。

矢島さんは椅子に腰を下ろし僕らに「準備ができたら曲の紹介をして歌ってみて」と指示した。

「え? ここでですか?」

僕らは部屋中を見渡したがどこにもマイクスタンドらしきもの、今で言うPAのセットがない。審査員もいない。

「そう、ここで」

僕らの期待は見事に外れた。僕らは拍子抜けしつつもどこかホッとした気持ちでケースからギターを取り出した。

友人のギターはARAI(ARIAではない)と言うメーカーの12弦ギターで、

サウンド・ホールのところにエレキギター用のトースター型のピック・アップ(当時はギター・マイクと呼んでいた)が取り付けてある。

所謂、至極初期型のと言うか原始的なエレアコだった。

せっかくのギターをアンプから音を出す事も出来ず、ましてボーカル用のマイクも設置されていない、この教室のような空間で歌わなければならない状況に、しばし友人は呆然としながらもチューニングをしていた。

「殺し屋」を歌い終わると矢島さんは「なかなか、いいね!」と褒めてくれた。

プロの人に認められたのだ!僕は心の中でやったぜ!と思った。

彼が「もう1曲何か出来る?」と言うので友人はディランの「時代は変わる」を歌った。

矢島さんから「6月か7月くらいに出演してもらう。また連絡するよ」と言われた時には二人とも飛び上がらんばかりにびっくりした。

数ヶ月後には僕の曲がテレビで流れるのだ!!

矢島さんと僕は少々音楽談義を交わし、友人は用意された書類になにやら記入していた。

簡単なアンケートと、再度連絡先の確認かなんかだったと思うが、興奮していたので何を書かされていたのか覚えていない。

早くここを出て友人連中にこの良報を自慢したかった。

矢島さんに丁寧におじぎをすると有頂天な気持ちで僕らはさっき入って来たドアを開けて廊下に出た。

廊下の長椅子に次のオーディション待ちらしい3人が座っていた。

マッシュルーム・カットの少年がちらっと僕らの顔を見た。

僕は3人に軽く会釈した。彼らの前を通過する際、2本のギター・ケースとウッド・ベースが目に入った。

「そうか、こいつらはフォーク・バンドなんだ」と思った。

「オレ達は受かったぜ」と言う嬉しさをかみ殺しその場を去った。

それから1ヶ月くらい経ったある朝(正確には1969年6月8日だったらしい)、

あの日、TBSの廊下ですれ違った連中がヤング720のアマチュア・コーナーに登場した。

「あっ!あいつらだ!」僕は朝食そっちのけでモノクロのブラウン管に飛びついた。

あのマッシュルーム・カットの少年がギターを抱えてそこにいた。

フォーク・ユニットの編成だが演奏が始まるとそのアンサンブルからはいきなりロックっぽいBEATが感じられた。

ちょっとシェイクするギターの乗りは16ビートに近い。

3人のフォルムもスウイングしているし、もうひとりのギターリストが左利きでビートルズのようにシンメトリックなスタイルも絵になっていた。口惜しいくらいかっこいいなと思った。

しかし何より、そのマッシュルーム・カットの少年の破壊的でどこか耳障りにも聴こえるボーカルが強烈に響いた。ブラウン管のテロップには曲のタイトルがクレジットされた。

「どろだらけの海」

それが僕とRCサクセションの出逢いだった。

僕の友人が720に出演したのはそれから1ヶ月程後、もう夏休みにさしかかっていた。

友人の家に待ちに待った収録日程の電話があり、当日は僕も立ち合った。

僕らはオーディションの日からずいぶん後回しにされたんだなぁ、と思った。

その日は先日の殺風景な大部屋とは違って大きなスタジオだった。

テレビカメラが数台周りを囲み、スタッフも何人かいたので僕らは怯えたように緊張していた。

なんとか無事に演奏を終えた友人は放心状態だった。

僕もどっぷり疲れていた。

あの初夏の日、オーディション当日、実際にRCサクセションがどんな演奏をしたのか僕は矢島さんに訊きたかった。

彼らが普段はどこで演奏しているのか? 実際に見てみたかった。

しかし収録現場に矢島さんの姿はなかった。

気後れした僕らは他のスタッフに矢島さんのことも、RCサクセションのことも訊けないままスタジオを後にした。

そっかぁ、あいつらと知り合いになりたかったなぁ。

今のように簡単に情報が手に入る時代ではなかった。きっと彼らとも行きずりでこのまま二度と会うことはないのだろう、彼らもそんな数あるアマチュア・バンドの中のひとつに過ぎない。僕はぼんやりそんなことを考えた。

しかし運命の歯車とは不思議なものだ。

やがて、このバンドが後の僕の人生に大きく関わって来る事を、まだ16歳の僕は知る由もなかった。


注)ヤング720とは文字通り朝7時20分から始まる若者向けの情報番組。

TBSにて月曜日~土曜日、8時までの40分間オン・エア。夕方17時から再放送されていた。

音楽のコーナーではグループサウンズから関西フォーク系のアーティストが多数出演、伝説のグループ、ジャックス(”休みの国”名義で)も出演している。時にはイギリスやアメリカの来日アーティストも出演、パフォーマンスを繰り広げた。エリック・バートン率いるアニマルズが行った破壊的なライブは有名。また、ビートルズのゲット・バック・ルーフ・トップ・セッション(ゲット・バックのみ)をどこよりも早くオン・エアした。

当時の中高生が登校前に必ずこの番組にチャンネルを合わせていた。

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