2016年02月05日
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2016年02月05日
1972年2月5日、RCサクセションのファースト・アルバム『初期のRCサクセション』が発売された。
この頃のRCは、アコースティック・ギターとウッドベース編成の3人バンド(忌野清志郎、林小和生、破廉ケンチ)だが、当時のフォークブームの中でも一線を画しているサウンドだと云われていた。清志郎の強いギター・カッティング、ありきたりのラインを弾かないウッドベース、ふいにやってきて跳ねるリードギター、飛び回るパンクなヴォーカル。3人が素晴らしく混ざり合いどこにもない色を作る。これが不動の個性、初期のRCサクセションだった。
翌73年に出版されたムック本「RCサクセションのすべて」の中で、3人は「軽佻浮薄なフォークブームが去ってせいせいしている」「ブームが我々の世界をブチこわして不幸にするんだ」と、こんなことも語っていた。遥か昔から一貫して云っていることに変わりない。そうだった、彼らはいつでもそんなふうな発言と態度だった。私はそういうRCが好きになったのだ。10代前半の私の感情を初期設定したRCサクセション。大げさでもなく、RCがベースにある人生がここから始まった。この『初期のRCサクセション』の3人のガサついた混ざり方が大好きである。
先日、RCのベーシストだったリンコさん(小林和生/リンコワッショ)に話しを聞く機会に恵まれた。
リンコさんは、1968年のRCサクセション結成から1991年の活動休止までの間、厳密にいえば、RCの前身バンド「The Clover」の結成が中学時代の66年だから、25年間清志郎と活動を共にしていたことになる。現在の生業は音楽ではないが、RC休止後、中国の伝統楽器の二胡を奏で始め、人に教え、もう25年経つとのこと。
「TVK(テレビ神奈川)『ヤング・インパルス』のレギュラー出演があったり、「ぼくの好きな先生」がちょっとヒットしたり、にぎやかだったな」と、72年をリンコさんは言う。「1台の車に楽器を全部積んで、国立からテレビ神奈川がある横浜までよく通ったなぁ。みんなでワイワイやりながらね」。メンバーは当時21歳そこそこ。まだまだピックが転んでも可笑しい年頃だったのだろうか。
72年は、3枚のシングルと2枚のアルバムをリリースした多忙な1年、世間のRC認知度が高まった年だ。その後に味わう俗にいう、売れずにホサレ続けた「暗黒時代」(リンコさんは全然そう思ってないそうだ。時間があって楽しかったと)の雲行きすらない。
中学時代のコピー曲を卒業し、高校生から作り貯めたオリジナル曲はすでに膨大にあった。『初期のRCサクセション』は、余裕で選曲できたと言う。「曲がバラエティに富んでるよね。タイトルも「初期の~」なんてつけちゃって面白い」と、リンコさんが笑った。こんな客観的なタイトルをつけるあたり、RCのなんともいえない距離感の遊びを感じる。当時、音楽評論家はこれをシニカルと評した。私はこの心地よさが抜群のセンスだと加えたい。
このアルバムがメンバーの録音後に知らされずにアレンジされ、オーバー・ダビングされていたことは周知の事実。音楽雑誌のインタビューで「唖然とした」「セカンド・アルバムへの教訓になった」と清志郎が答えていた。「レコーディングのことなんか何も知らない子どもだった」と…。すごいことがまかり通っていた時代なんだな。リンコさんも「や~、ドギモを抜かれたよ」と言う。が、続けて、「でも、自分たちの演奏を引かれたのではなく、音を重ねたのだから…」と、否定的ではない。そして、「(3人だけだと)どぎついかも」と言った。この言葉はまさに私の意を得たりで、それもメンバーの口から聞けたことが嬉しかった。あの頃、私は、最初のアルバムは3人だけの音ですっきり聴きたかったな、と思っていた。でも、何回も聴くうちにあらためて感じたことがある。それは、3人の音のエネルギーの塊はスゴすぎて、すっきりなんてしないんじゃないか、ということだ。このあたりは、RCのスゴさは聴き手に100%に近い割合で届くか、という難点(特にこの時代)でもあったと思う。曲として耳に抵抗無く入ってくるのも大事で、カタマリは上手くほぐせばエネルギーも残る、と思うようになった。このような意味合いで『初期のRCサクセション』はアレンジがプラスに働いたと思っている。
このアルバムを聴く度に、私は冬の尖った寒さを思い起こす。何故だろう。真冬のリリースのせいか、中ジャケ写真のロケーションが荒涼としているからか…、グサグサと飛んでくる歌詞のせいかもしれない。曲調のスピード感か。たとえば、春の雨の匂いに自分の記憶が呼び起こされるように、私はこのアルバムで寒い季節を想う。1曲目から炬燵が浮かぶ。炬燵に入って長電話するちゃんちゃんこ姿の清志郎が浮かぶのだ。
RCの曲には国立の風景や名称がよく登場するが、私はその場所を見てみたい一心で、中学生の夏休みに国立まで出かけたことがある。まず、最初に探したのは、『初期のRCサクセション』の3曲目のタイトル「国立市中区3-1」という住所だった。結局、中区という番地は無く、国立駅南口や一橋大学を散策して帰って来たのだが…。今回、ふとそれを直々に訊いてみたくなった。リンコさんは即答で「国立楽器」のことだと教えてくれた。駅を背にして右斜めに伸びる富士見通りに楽器屋はあって、メンバーはよくそこに行ったのだと。44年前のことか…。答えを知るまですいぶん経っちゃったんだな。
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