2016年03月02日
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2016年03月02日
3月2日は渡邊 晋の誕生日である。
自身もベーシストとしてバンドを率いて活躍した後、1955年に夫人の渡邊美佐とともに渡辺プロダクションを創立し、芸能人の地位向上を図るための新たなマネージメントを確立させた渡邊晋は、日本の芸能ビジネスの道を開拓したパイオニアである。タレントのマネージメントにとどまらず、原盤制作やテレビ・映画の製作などにも奔走して強大なプロダクション経営を展開した氏が世を去って早くも30年近くの歳月が流れた。かつて芸能界のドンと呼ばれた渡邊晋が生まれたのは、1927(昭和2)年3月2日のことであった。
早稲田大学法学部に在学中に、テナーサックスの松本英彦、ピアノの中村八大、ドラムの南廣らと共に“渡辺晋とシックス・ジョーズ”を結成。担当のベースを一からマスターした渡邊はリーダーを務め、人気を集めるようになる。その中で、ジャズ・ミュージシャンの不安定な収入や待遇を嘆いていた渡邊はやがてプロダクション経営について考え始めた。それには、彼らのマネージメントを手がけていた曲直瀬美佐との出逢いが何より大きかった筈だ。美佐の実家は仙台でオリエンタル芸能社(後のマナセプロダクション)という芸能事務所を営んでいた。二人が夫妻となった1955年、日比谷三信ビルの一室で渡辺プロダクションはスタートした。何より革新的だったのは、芸能界ではじめて、所属タレントの月給制を導入し、不安定だった芸能人の収入に最低限の保証を確立したこと。それまではレコード会社の専属が普通だった歌手や作詞家、作曲家をプロダクションの傘下に集結させてゆく。さらにはレコード会社で行われていた原盤制作を自ら行なうことで、系列会社の渡辺音楽出版を擁して莫大な利益をもたらした。フジテレビが開局した59年からは、テレビ番組のユニット制作を開発し、『おとなの漫画』『ザ・ヒットパレード』を自社で制作。61年からは日本テレビで『シャボン玉ホリデー』が始まり、その出演者のほとんどを自社のタレントで賄えるほど、巨大なプロダクションへと成長していったのである。マスコミは“ナベプロ帝国”と呼び、渡邊晋は揺るぎない芸能界のリーダーとして君臨するようになった。
ハナ肇とクレージー・キャッツをはじめ、ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかり、布施明、奥村チヨ、ザ・ドリフターズ、ザ・タイガース、沢田研二、小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズ…etc. 渡辺プロのタレントなくしてはテレビ番組が成り立たないと言われた時期もあった。晋が経営者として優秀だったのは、日劇ウエスタンカーニバルを成功させてロカビリー・ブームを呼び込んだことをきっかけに妻の渡邊美佐をプロダクションの顔とし、自身は裏方に徹して政財界への強力なコネクションを築いていったことにある。しかしそんな渡邊の会社経営にも、人気タレントの相次ぐ独立や、他のプロダクションの台頭などによって、70年代後半から徐々に陰りが見え始めた。重ねて自身の体調が思わしくないこともあり、栄光の時代は過去のものとなっていった。最後に注力した吉川晃司の成功を見届けた後、87年には59歳の若さで急逝するも、その後は妻の美佐、娘のミキ、万由美が一丸となってその遺志を継ぎ、渡辺プログループは再び隆盛を誇っている。渡邊晋が築き上げた遺産は今も日本のエンターテイメントビジネスに脈々と受け継がれているのだ。晋亡き後、渡辺プロダクションが50周年を迎えた2005年には記念事業の一環として「抱えきれない夢」と題された大規模な展示会が催され、祝賀パーティーにはまだ健在だった植木等をはじめとする功労者が大集結した。晋が健在であればどれだけ喜んだことだろうか。翌2006年には渡邊晋・美佐夫妻の功績がテレビドラマ化された『ザ・ヒットパレード ~芸能界を変えた男・渡辺晋物語』が放映され、柳葉敏郎が晋の役を演じた。さらに2007年には舞台『ザ・ヒットパレード ショウと私を愛した夫』が上演され、今度は晋の役を自社のタレントであるネプチューンの原田泰造が演じている。
ミュージシャンしてのシックス・ジョーズでの活動は、早い時期に後進に任せ、プロダクション経営に心血を注いだ晋であったが、晩年に藍綬褒章を受章(芸能事業で初の受章だった)した折のパーティーなどでは、衆前でベースを披露する姿があった。かつての仲間たちの弁によれば、もともと生活のために手を染めたというベースの腕は決して一流とは言えなかったそうだが、経営者としては超一流の大実力者であったことは間違いない。親しかった人間たちが口を揃えて語る秀でた人間性こそ、渡辺ブロダクションが大成功を収めることが出来た最大の要因であったことと思う。シックス・ジョーズで氏が奏でるベースの音色は何ともいえない温かみに満ちていた。
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