2015年10月13日
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2015年10月13日
ちょうど40年前の今日、1975年の10月13日、沢田研二が大滝詠一の「あの娘に御用心」をモウリ・スタジオでレコーディング。
大滝詠一が同じ昭和23年生まれとして強く意識していた沢田研二。大滝ファンにも沢田ファンにとっても貴重な出会いが75年12月21日リリース沢田研二「あの娘に御用心」(作詞・曲:大瀧詠一編曲:多羅尾伴内、7枚目『いくつかの場面』収録)である。
この曲は、数奇な運命をたどる。そしてファンに決定的なナゾを残して、大滝は世を去った。そこに大滝が奮戦した70年代の軌跡が鮮やかに刻み込まれている。
ナゾは、大瀧詠一名義で提供した曲の数々をレーベルを超えて収録したアルバム「大瀧詠一作品集Vol.2」のライナーノーツである。薬師丸ひろ子、小泉今日子、森進一、小林旭、かまやつひろし、アン・ルイス、クレイジー・キャッツ、うなづきトリオ、角川博、金沢明子、吉田美奈子、かねのぶさちこというジャンルを超えた豪華極まりないメンバーが集まるコンピレーション。ここに、沢田研二の「あの娘に御用心」が含まれた。しかし、このバージョンのボーカルは「いくつかの場面」に含まれていたものと、全く違うものだった。「いくつかの場面」のオリジナル・バージョンは、発音が不明瞭。「大瀧詠一作品集Vol.2」のバージョンは、沢田らしいはつらつとした明解な発音のものとなった。その説明が長文でライナーノーツに大滝本人により書かれている。
オリジナル76年のバージョンは「渡辺プロダクションのディレクターによる『あんなに発音がきれいだったハズの沢田の日本語が不明瞭だったのでシングル化を諦めた。』というような発言を(後に)聞き、大瀧は申し訳ない思いをした」というのだ。レコーディング時には「リハーサル・テイクとOKテイクの2種類が残されたが、最終ミックス時に、リハーサル・テイク”を(誤って)使用してしまい、そのテイクがアルバム『いくつかの場面』に収録されてしまった」というのだ。それから18年たった1993年、大滝が自宅でテープを整理している際、当時のスタジオ音源を聴き「初めてミスに気付き」渡辺プロと沢田の厚意により、OKテイクをボーカルとしてリミックスし「大瀧詠一作品集Vol.2」に95年収録されたというのだ。
「あの娘に御用心」は、大滝の「ナイアガラムーン」に収録されていた「シャックリ・ママさん」を土台にした曲調だ。「ナイアガラムーン」は、70年代大滝ファンにはしばしば最高傑作とされる名盤。ここで大滝は他のアルバムにない実験を三つ行っている。
一つめは冗談のように笑えるノベルティソングの固まりにしたこと。そのためメロディー・タイプに必須のマイナー・コードを一つも使わなかったと書いてある。二つめはリズムの実験場にしたこと。ニューオリンズのセカンドラインを中心に、メレンゲやストラット(タイトル)など、なじみのないリズム編曲の曲が目白おし。三つめがミキシング、特にボーカルレベルだ。普通の日本のレコードでは考えられないくらいリズムがでかい。特にドラムとベース。そのためボーカルが小さい。絶妙な自身のエンジニアリングによって歌詞は聞き取れるが、日本のロック、歌謡曲の常識を覆す過激なミックスとなった。
その音量低いボーカルは独特の、時にモゴモゴ、時にフニャフニャとした変幻自在の奇妙なスタイルをとっていた。「福生ストラット」の「福が生まれる町」という歌詞は「ふ~ぐ~がぶまれるま~じ~」と米南部を向こうに、仮想のローカル発音を示唆するなまり、大滝節を持っていた。大滝流の「ロック」は、あり得ないほどのリズムの強調により独壇場のカタルシスを持ち、ファンは喝采を持って歓迎した。
70年代の大滝は、自身の福生45スタジオを根城にこのように実験を繰り返している。この後の「ナイアガラ音頭」などはその極北といえるだろう。
そんなアルバムの「シャックリ・ママさん」という実験曲を、歌謡曲のメイン舞台にいた沢田研二に適用するという事態に、そもそも無理があったのではないか? かたや聴き取りやすい歌謡曲歌唱を確立した沢田、かたや極端な歌唱法と実験を展開する大滝だ。「面白い新しいものを」という渡辺プロダクション側の好意は素晴らしいが、その解離には悲劇も編み込まれていたのでは?
さて、ここからはサエキの推測である。「一度聴いた曲は絶対に忘れない」と豪語する大滝だ。曲だけではない、映画のシーンでも画面のハジに映るちょっとした小道具のようなものも見逃さない驚異の記憶力と観察力を持つ。そんな大滝が「最終ミックス時にリハーサル・テイク”を(誤って)使用してしまう」というような凡ミスを犯すであろうか? しかも「いくつかの場面」ミキサーは「風街ろまん」を担当した名匠・吉野金次である。鉄壁のスタッフにそんなミスはあり得ないだろう。
リハーサル・テイクといわれる「あの娘に御用心」オリジナル・バージョンを改めて聴いてみよう。けして悪くはない。いや、むしろモゴモゴしたボーカルがリズムにのって、後のOKテイクのボーカル・バージョンよりもノリが良く聴こえるではないか?
このリハーサル・テイクは、恐らく大滝自身のデモ・ボーカルを聴き、それを真似た。大滝のスタイルの影響が現れたバージョンだったのではないか?
しかし、本チャンはしっかりといつものように滑舌良く発音して録音した。その結果両者を比べたら、その場で「リハーサル・テイク」が面白い!と盛り上がったのではないか?そして大滝が「ヨシ!リハーサル・テイク」で行きましょう! と決定したのではないだろうか? しかし、現場にいなかった渡辺プロのスタッフにしてみれば「う~ん、これでは歌詞が聴き取りにくい」とシングル化案も却下せざるを得なかったのだろう。
まだまだ日本のロックが発展途上にあった1970年代、一足さきに60年代にスターになった沢田研二&歌謡曲シーンと、70年代以降に「日本のロック」というスタンスから意欲的なサウンドを追求していた元はっぴいえんどメンバーの立ち位置には大きな距離があった。それが解決されるのは80年代、松本隆が揺るぎない大作詞家としての地位を固め、ヒット曲が連発される頃。フュージョンやテクノを経た80年代の歌謡シーンは、70年代と違い、ビートとグルーヴはロックファンにも満足できる強さと魅力も備えていた。そんな中、大滝やはっぴいえんど周辺のメンバーは、松田聖子を皮切りに、新しい歌謡曲を作りだしていった。
小林旭や森進一とのコラボが成功したように80年代こそ、沢田研二と大滝詠一のもっと幸福な出会いが果たされるべきだった。
これは日本のロック進化史上の、運命のイタズラというべきものだったろう。
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