2016年03月25日
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2016年03月25日
あの有名な「月光仮面は誰でしょう」の歌詞が星勝のブルース風の歌で始まる。
途中タンゴのリズムになり「バギューン、弾丸よりも早く...アッ空を見ろ!~」と、「スーパーマン」のオープニングのセリフになってしまう。
もともと大瀬康一扮する探偵、祝十郎が変身して月光仮面になるという設定の筈が、何故か宇宙人という設定になってしまうというハチャメチャな始まり。
途中通訳の鈴木ヒロミツが、宇宙語をしゃべる星勝の月光仮面にインタビューするのだが、この宇宙語と通訳が、ライブになると毎回演奏するたびに違ってくるという面白さだった。当意即妙さと出鱈目な通訳の、出てくるものすべてが意表をつく作品だった。
グループ・サウンズと一線を画す意識を持っていたモップスはロックは英語でなければならないと、東芝へ移籍してからはA面の有名曲のモップス・バージョンは勿論オリジナル曲も英語詞のシングル盤を出し続けてきた。
1970年前後、グループ・サウンズ・ブームが段々下火になり、英米でもビートルズ・フォロワー・バンドから変化していったアーティスト達のハード・ロック・バンドや、アート・ロックといわれたバンドなどが盛んになってきた。レッド・ツェッペリンや、ジェフ・ベックやエリック・クラプトンのクリームなどのヤード・バーズ出身のギタリストがもてはやされて始めていた時代だった。
日本でもジミー・ペイジを完コピしていた成毛茂などを先頭にロック・ギタリストのヒーローが登場してきた。音楽のムーブメントやロックはモップスが目指しているイメージに近づいてきたと思った。
しかし、イメージとは裏腹にグループ・サウンズ全盛時代のような女性ファンが群がるような状況とは程遠く、レコードの売り上げにはほとんど結びつかなかった。
グループ・サウンズ・ブームから抜け出してロックバンドになっていったゴールデン・カップス、ダイナマイツなどと同様モップスのシングル盤の売り上げも芳しくなく、仕事の中心はジャズ喫茶。
当時のジャズ喫茶は昼の部、夜の部に分かれていて多い時など例えば、昼は銀座のジャズ喫茶5回、夜は池袋のジャズ喫茶5回のようなスケジュールで1ステージ3~40分演奏するのである。
女性客が少なくなったとはいえ、毎回きてくれるファンもいる。常連客7~8人が昼の部から夜の部までずっと見ていることもある。
そうなると、昼夜10回のステージを全部違う曲でこなしてゆくのがキツイ。そこで鈴木ヒロミツのトーク・タイムが始まる。巧みなトークで客を引き付け、演奏が1ステージ2~3曲ということもよくあった。
そんな中でヒロミツの音楽の講義が始まった。ロックはこういうリズム、ブルースはこういうリズム、タンゴはこういうリズムという違いを同じ曲で演奏する。その例として取り上げたのが、当時は誰もがみんな知っている「月光仮面は誰でしょう」だった。
そして前述のステージが完成されていった。
これは面白かった。
同行したスタッフもこの曲になるとステージを見に行くほどだった。
東芝レコードのリヴァティ・レーベルの平形忠司プロデューサーが「これをレコーディングしよう」と提案してきた。もともとステージの時間つぶしでスタートした曲がレコードになるのかなぁ? という疑問はあったが、「面白ければいいんじゃない」というロックバンドらしからぬ結論で録音は始まった。
レコーディングは毎テイク床をたたいて笑うくらい面白かったのだが、いざプレイバックすると妙にしらけてしまうことも多く、出来上がりは意外と時間がかかった。
次はこのハチャメチャな内容が、脚本と作詞をしている気難しそうな作家川内康範氏の許諾が下りるのかが全員の不安の種だった。(原曲「月光仮面は誰でしょう」川内康範・作詞 /小川寛興・作曲)
平形忠司プロデューサーとスタッフが挨拶に伺うと全く「案ずるより産むがやすし」の言葉通り、面白がってくれ快諾を得た。
リリースすると、モップスとしてはデビュー曲以来のヒットとなった。
テレビの音楽番組も異色のヒット曲としてキー局は勿論、地方局などからも出演依頼がきた。レコーディング・プロデューサーとマネージャーを兼任していた僕は、朝から夜まで行動を共にしていた。明け方まで一緒に飲んでいても、マネージャーの僕が早起きして全員に電話をかけて起こすのである。だが毎回のように誰かが遅れてくる。テレビ出演でも真面目な性格の星勝以外のメンバーは遅刻の常習者である。幸い本番に遅れたことは無かったのだが。
おかげで「月光仮面」の音合わせやカメリハでは、ドラムもベースも代役として僕が下手くそな演奏をしたことがある。時にはヒロミツの代わりに通訳をやった。星勝の宇宙語を僕の通訳で「ヒロミツが遅れて申し訳ありませんと月光仮面がおっしゃっています」で多少、場が和んだことを思い出した。
ただテレビを見てからファンになった人の中にはロックバンドというよりもコミックバンドという認識をしている人も多かったことも事実である。
当時、2年間だけ、元スパイダーズのリーダーで現在、田辺エージェンシーの社長の田邊昭知氏が、東京音楽出版(ホリプロの音楽制作部門)の社長を務めたことがある。田邊社長の自宅にモップスメンバーと僕が呼ばれた。
理由はモップスが切り開いたこのジャンルを絶対に死守しろという命令に近いものだった。ヒロミツの説得力をはるかに凌駕する田邊社長の説得力はハンパなものでは無かった。コミックバンド扱いされたくないモップスと僕は毎日のようにアイデアを出し合った。
ヒロミツが考え抜いた結果、ちょっと下火になっている浪曲をロックにしてみようというアイデアでの「森の石松(‘71年9月25日)」や河内音頭を取り入れた「なむまいだあ─河内音頭より─(‘72年2月5日)」など試行錯誤は続いた。
そしてヤマハ主催の「'71作曲コンクール(第3回)」のグランプリを受賞した
「雨/森田純一作詞・菅節和作曲・モップス編曲及び演奏」でようやくトンネルから抜け出した。「雨(‘72年5月5日)」
その後、‘72年7月5日発売の「たどりついたらいつも雨ふり」のヒットで鈴木ヒロミツとモップスは世間にロックバンドとしての認識を確実なものにした。
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