2016年05月27日
スポンサーリンク
2016年05月27日
1966年に大阪にやって来た高石ともや(当時は友也)さんとぼくは1967年3月に知り合い、高石さんに連れられてあちこちで歌い始めるようになった。すでに関西では日本語で歌うフォーク・ソングの動きが活発になり始めていたが、67年の冬にフォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」が関西のラジオで流れたことがきっかけとなって大評判となり、1968年には関西でのフォークの動きが「関西フォーク」と名付けられて(あまりにもそのままのネーミングだ!)大きく盛り上がることになった。
高石ともやさんを中心にフォーク・コンサートもさかんに行われるようになり、そこにぼくも参加していたのだが、一緒にステージに出ていたのが、フォーク・クルセダーズや五つの赤い風船、しばらくしてから登場してきた岡林信康さん、東京から歌いにやって来た高田渡さんや遠藤賢司さんたちだった。
五つの赤い風船と初めて出会ったのはいつのことだったのかはっきりとした記憶はないが、恐らく1968年になってから行われたそうしたフォーク・コンサートのひとつでだったと思う。風船のメンバーの中でもぼくはギタリストの中川イサトさんとすぐに仲良くなり、二人で一緒に会ったり、いろんな話をしたり、そして自分が歌う時にギターを弾いてもらうようになったが、リーダーの西岡たかしさんとはすぐにはお近づきになれなかった。というか、ぼくにとってはとても畏れ多い存在だった。西岡さんはぼくより5歳も年上だったし(18歳か19歳の頃に5歳も年上だと、その人はうんと大人に思えて、近づきがたかったものだ。高石さんは8歳も年上だった)、どこか孤高の芸術家というイメージも漂っていて、打ち解けて話ができるようにはなかなかならなかった(ぼくと同い年の高田渡さんは西岡さんと出会ってすぐに意気投合していたから、これは年齢の話ではないのかもしれない。イサトさんだってぼくより二つ年上だ)。
その頃の関西フォークの動きの中で、ぼくはガチガチでストレートなプロテスト・ソング一辺倒だった。60年代後半の時代状況も、ヴェトナム戦争反対、大学自由化、70年安保延長反対、安保粉砕で熱く燃え上がっていた。ぼくは自分の歌をそうした世の中の動きと直接結びつくものと捉え、戦争反対を強く訴える歌をさまざまなかたちで、より熱く、より直接的に歌おうとしていた。
そして五つの赤い風船もまた戦争反対の歌、平和を願う歌を何曲も歌い、もちろん高石ともやさんも岡林信康さんも、そして高田渡さんもそれぞれのやり方で戦争に反対する歌を歌っていた。そのうち「関西フォーク=プロテスト・ソング→反戦歌」といった乱暴な図式が勝手に作り上げられたりするようになった。
確かにみんな戦争反対の歌を歌っていたが、やり方や表現方法、そしてその思いや考えはそれぞればらばらで、それを「プロテスト・ソング」、「反戦歌」ということで一括りにしてしまうのはちょっと違っているのではないかとぼくは思う。ぼくはとにかく自分の「反戦歌」を、戦争はよくないとただ歌うだけではなく、アメリカの言いなりになるな、当時の日本の政府、佐藤栄作政権をぶっつぶしてしまえという、「直接的」な思いを重ねたものとして歌おうとしていた。
一方そうではなく、どうして人は戦争をするのだろう、平和な世の中になってほしい、人が殺しあったり死んだりするのはもういやだと、もっと人間的な思いを訴える「反戦歌」もあった。フォークが好きな人たちの間で強く支持されたのもそうした歌のほうで、ぼくのような「直接的」な歌は、政治的すぎる、演説みたいだと批判されることも多かった。「五つの赤い風船」の代表的な「反戦歌」、「血まみれの鳩」や「まぼろしのつばさと共に」は、まさにそんな「ヒューマン」なところから歌われていて、だからこそ多くの人たちの心を揺さぶり、今もなお歌い継がれているのだとぼくは思う。
知り合ってすでに半世紀になるのに、西岡さんとはこれらの歌のことについて、いやもっと広くフォーク・ソングということについてもまだちゃんと話し合ったことがない。「あれは『反戦歌』なんかとちゃうで」と西岡さんなら言ったりするかもしれない。一度西岡さんの大好きな日本酒でも飲みながら、二人で心ゆくまで歌のことやいろんな話をしてみたいと願っている(でもぼくは今ドクターの厳命で、減酒&限酒状態だし、西岡さんもお銚子が三本目になったら突然酔っ払うからなあ…)。
古い世代なら、ギターを片手に歌った「ひとり寝の子守唄」を覚えているだろう。この曲で加藤登紀子は69年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。その後の71年の「知床旅情」のヒットもあり、”フォークの...
高田渡さんがこの世を去って今年でもう13年、世の中は、ぼくらの国は、世界はとんでもなくひどいことになっていくばかりだ。今高田渡さんが生きて歌っていたら、このとんでもない、腐りきってしまったぼくら...
北山修が詞を書き、それに杉田二郎が曲を付けた「戦争を知らない子供たち」は、1970年大阪万博の音楽祭で北山の司会により集団歌唱されたものが同年にレコード化もされていたが、ジローズ(第二次となる杉...
遠藤賢司が「ほんとだよ b/w 猫が眠ってる」でデビューしたのは、1969年の2月1日のこと。東芝のEXPRESSレーベルからリリースされたこのシングル盤は、モノクロームで描かれたポートレートが...
4月27日は、平日は医師、週末は歌手というウィークエンドシンガーとして最後まで活動を続けた藤村直樹の命日。享年62歳。text by 緒川あいみ
ニュー・ミュージックの興隆期に頭角を現し、中島みゆき、長渕剛ら幾多のアーティストを支えた名アレンジャー、瀬尾一三。今日9月30日は瀬尾一三の誕生日である。text by馬飼野元宏
不滅の男がステージに戻ってきた。今年6月、がんによる闘病を公表した遠藤賢司のライヴが9月21日、渋谷クラブクアトロにて行われた。バックをつとめるのはサニーデイ・サービス。あの名盤『満足できるかな...
高石ともやさんと初めて会ったのは、1967年3月のことだった。大阪市内の小学校を会場に借りて行われたベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)関係のベトナム戦争反対の集会に講演を聞きに行ったら、そこ...
最近、通販生活のCMで「戦争を知らない子供たち」をうたい、あらためて話題を呼んでいる杉田二郎。関西を中心に、彼の存在がフォーク・ファンに知られるようになったのは、第一次ジローズの「あなただけに」...
第1回全日本フォークジャンボリーはいわゆる「関西フォーク」のひとつの頂点を示すものとして捉えられ、その後も70年、71年と規模を拡大して続けられていくが、ぼくにとっては、終わりの始まりとして強く...
1969年8月1日、会員組織による配布に限られていたURCレコードが、一般販売を開始した。発表されたのは『岡林信康フォーク・アルバム第一集~わたしを断罪せよ』と五つの赤い風船の『おとぎばなし』の...
1969年の6月28日、新宿駅西口地下広場でのフォークゲリラ集会に道路交通法を適用した機動隊が突入した。 地下広場や地下通路、駅前や商店街の路上などでフォークソングを歌うフォークゲリラと呼ばれ...
1970年の本日、岡林信康のセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』がリリースされた。今年で45周年ということになる。
本日6月12日は、誰が決めたか「恋人の日」。タイトルに「恋人」を含む大ヒット曲というと、まず思い浮かぶのがベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」(69年)、そしてシモンズ「恋人もいないのに」だ。こ...