2016年07月25日

ローウェル ・ジョージが驚嘆したその才能…矢野顕子の名盤『JAPANESE GIRL』

執筆者:サエキけんぞう

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矢野顕子(その頃は旧姓:鈴木晶子)を初めて見たのは、1974年7月に日本青年館で行われた「邪無」というコンサートであった。その日の出演は、アメリカでのデビューから帰国したイーストの2名、瀬戸龍介とアコースティック・ギタリスト吉川忠英(アルバム『こころ』発表時)の二人のライブと、小坂忠とティンパン・アレー名義の初ライブという内容。細野晴臣、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆のキャラメル・ママ4人に、矢野顕子、コーラスに吉田美奈子が加わるという編成。ハモンドを弾く松任谷に対し、くっきりとしたエレキ・ピアノをビル・ペインのように弾きこなす矢野顕子の姿には驚かされた。伏し目がちの表情は現在のままで、身体をグルーヴさせながら弾く姿は、はっぴいえんど近辺が新しい時代に突入したことを示した。


実は彼女は、我々の目に触れずにスタジオミュージシャンとしての経歴を積んでおり、1973年にキャラメル・ママとはソロのスタジオ録音を行っていたし、74年には「ザリバ」名義で、シングル「或る日」を筒美京平作曲、矢野誠編曲でリリースしていたのだから、70年代前半のフォーク、ニューミュージック全盛時代を「本能で?」スルーしていたことになる。


「ホテル・カリフォルニア」が話題をさらう年、1976年7月25日に矢野顕子の1枚目「JAPANESE GIRL」が、フォノグラムから発売される。はっぴいえんどを出したベルウッド・レーベルの三浦光紀が新しく立ち上げたニュー・モーニングというレーベルだ。ここは、あがた森魚の他に、喜納昌吉&チャンプルーズも配しており「新しい朝」とは、日本のフォークやニューミュージックだけではなく、ロックが行き詰まった年に始まったレーベルである。


『JAPANESE GIRL』がどう、日本のポップスの行き詰まりを打破したか? それは前年の鈴木茂の『バンドワゴン』に続き、米国のミュージシャンと渡り合ったことにある。A面M1~5は、AMERICAN SIDEと名付けられ、リトル・フィートのメンバーが参加していることだ。しかも津軽民謡「ホーハイ節」を元にした「津軽ツアー」、青森ねぶた祭の民謡を元にした「ふなまち唄PartII」と、日本人のアイデンティティをぶつけていることが凄まじい。通常そうしたトライは日本のリズムと他国のリズムのセッションになるものだが、これらは矢野顕子の体内ですでにジャズロックイディオムに消化された上でのセッションだったことがポイントだ。すでに筒美京平とのスタジオ・セッション(Dr.ドラゴン&オリエンタル・エクスプレス)などで、世界レベルのスタジオ音楽家としての研鑽を積み、さらに踏み込んで「自分の歌」「自分のリズム」になっていることが注目だ。その結果、メンバーのロック最高峰のギタリスト、ローウェル ・ジョージが才能に驚嘆し、「僕たちの力不足でした。ギャラはいりません」と語ったともいわれる。


「電話線」ではリズム的にもスリルに富む情感をリトル・フィートの乾いたサウンドを引き寄せる形で結果として日本的叙情性に着地させることに成功している。この延長線上に海外制作を続けていけば、一体どんなミュータントな音楽が生まれたか?と想像されるが、メインバトルは、ライブ盤『長月神無月』を経てYMOとの出会いという、これまた世界史的なサウンドとの格闘へと進行していく。


そこで待っているのは、テクノというタテの結界と、スウィングする矢野のリズム感の見事な融合だ。「JAPANESE GIRL」はテクノが降誕する寸での手前、そしてロックが一度没落する時期に作られたことがポイント。つまりロック解体期に最先端の米国バンドをしたがえて行われた、70年代ロックの限界点とディスコ・テクノへの変換期をかっさばいた、生演奏の大実験パノラマだったのである。


B面JAPANESE SIDEには、ティンパン・アレー、ムーンライダーズといったメンバーが参加、プロデュース「小東洋」名で、矢野誠が矢野顕子と共に務め、エグゼクティブプロデュースは三浦光紀、ベルウッドからの精粋がA面のAMERICAN SIDEでの飛翔を支えた形となった。

JAPANESE GIRL 矢野顕子

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