2016年01月25日
スポンサーリンク
2016年01月25日
昨2015 年は鈴木慶一があがた森魚と出会って音楽活動を始めてから45 年目という節目の年だった。はちみつぱい、ムーンライダーズ、ビートニクス、Controversial Spark、No Lie-Sense……等、様々なバンドやユニットでの活動を通して、日本の音楽界を大きな足跡を残しつつ、伝説的テレビゲーム『MOTHER』シリーズや北野武監督映画『アウトレイジ』、『アウトレイジ ビヨンド』、『龍三と七人の子分たち』の音楽を担当するなど、幅広いフィールドで活動を続けている。
記念すべき“45周年”に合わせ、鈴木慶一の全キャリアを網羅した3 枚組アンソロジー・ベスト・アルバム『謀らずも朝夕45年』、同時にオリジナル・アルバム『Records and Memories』もリリースされた。『Records and Memories』は、1991 年にリリースされた『SUZUKI 白書』以来24 年ぶりとなる、完全セルフプロデュースのソロ名義による新作オリジナル・アルバムだ。
そして、45周年をお祝いする“鈴木慶一祭り”の大団円が昨年12月20日、東京・芝メルパルクホールで、豪華ゲストや歴代メンバーを招き、行われたアニバーサリー・コンサート「鈴木慶一ミュージシャン生活45周年記念ライヴ」である。
Controversial Spark、THE BEATNIKS、ムーンライダーズ、はちみつぱい、アンコールでは『MOTHER』を共同制作したクリーチャーズの田中宏和も出演……と、時間を遡りながら自らの音楽史を総括。高橋幸宏やPANTA、斉藤哲夫、斎藤アリーナなどの豪華な客演、はちみつぱいでは本多信介、渡辺勝、駒沢裕城、和田博巳という“滅多に揃わない”奇跡のラインナップ、そしてムーンライダーズとはちみつぱいには武川雅寛がいた。武川は大病を克服し、帰ってきたのだ。また、はちみつぱいでは橿渕哲郎の愛息、橿渕太久磨が重責を務めた。
祭りを終えた本年2016年、3月にはソロツアー「Lone Harvest Festival Tour 2016」を開催。ツアーは3月12日の香川・高松オリーブホールを皮切りに、愛媛、大阪、大分、福岡の計5都市で実施。2月には同ツアーの開催に先がけ、京都・磔磔と東京・Mt.RAINIER HALL SHIBUYA PLEASURE PLEASUREで、あだち麗三郎、岩崎なおみ、佐藤優介(カメラ=万年筆)、ダスティン・ウォング、トクマルシューゴからなるバンド「マージナル・タウン・クライヤーズ」を率いてのワンマンライヴ「COME TO TOWN Tour 2016,Welcome for 46 years」も行われる。
と、枕が長くなったが、本日、2016年1月25日は、40年前に彼のソロ・アーティストとしての原点となったアルバム『火の玉ボーイ』がリリースされた日。同作はソロ・アルバムにも関わらず、「鈴木慶一とムーンライダース」としてクレジットされている。当初、鈴木慶一のソロ・アルバムとして制作が進められ、ムーンライダーズのメンバーだけでなく、矢野誠、細野晴臣、矢野顕子、徳武弘文、南佳孝などもレコーディングに参加している。リリース時にレコード会社の“意向”で、「鈴木慶一とムーンライダース」とバンド名がクレジットされることになった。1988年にメトロトロンからCD再発した際に「鈴木慶一」名義になったが、その後、再び“史実”に従い「鈴木慶一とムーンライダース」名義になっている。
そんな曰くつきの鈴木慶一のソロ・アルバムは、翌77年2月にリリースされるムーンライダーズのファースト・アルバム『ムーンライダーズ』とも趣を異にする。むしろ、同時期にリリースされたあがた森魚の『日本少年~ジパングボーイ』、細野晴臣の『泰安洋行』などと引き合い、共鳴する。異国情緒と郷愁あふれる音楽と海洋浪漫、探偵小説を彷彿させる詩歌。同時期の“日本語のロック”を象徴する名盤だ。
同作には、いまでも歌い継がれる名曲「スカンピン」が収録されている。ヒット・チャートとは無縁だが、ムーンライダーズを愛するものの心のヒットソングである。「スカーレットの誓い」や「くれない埠頭」などとともに彼らのコンサートでは定番でもあった。
1976年5月1日にアルバム発売を記念したコンサート「ムーンライト・リサイタル1976」を細野晴臣、矢野顕子をゲストに芝・郵便貯金ホール(現在のメルパルクホール)で開催しているが、勿論、同曲も披露されている。私は幸いなことに立ち会うことができた。記憶は曖昧で定かではないが、一際、受けていたような気がする。その模様は2005年5月にリリースされたアーカイブCD『ムーンライト・リサイタル1976 Live』で聞くことができるが、聞き直したらちゃんと拍手や喝采もあった(一安心!)。
その「スカンピン」だが、2013年5月に公開された映画『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』の主題歌になっている。突然の起用に大きな話題となった。同映画は北海道在住の作家・東直己の“ススキノ探偵シリーズ”を原作に探偵・大泉洋と相棒の松田龍平が活躍する、かの『探偵物語』、“遊戯”シリーズ、“濱マイク”シリーズなどを彷彿させる、ハードボイルドタッチの映画で、東映の『相棒』スタッフ(監督は橋本一、脚本は古沢良太・須藤泰司、音楽は池頼広)が手掛けている。
2011年9月に公開された同シリーズの1作目『探偵はBARにいる』にもカルメン・マキが歌うジャックスの「時計をとめて」が主題歌として起用され、同曲が謎解きに関わる重要な役割を果たしたが、2作目も「スカンピン」が重要な役割を担っていたのだ。
同曲はエンディング・テーマに使用されただけでなく、冒頭に大泉が同曲を口ずさみ、終盤には“スカンピン”という台詞まで出てくる。
実は『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』は「スカンピン」ありきで、制作されたものだという。同作の脚本を古沢良太と共同執筆し、制作も担当した東映のプロデューサーの須藤泰司が同曲を熱烈に愛していて、同曲を使用したいがために同作を作ったそうだ。ラストのススキノのビルの屋上で、大泉と松田がタバコをくゆらせるシーンは同曲のイメージに合わせ作ったものだという。散々、動き回ったが、結局、一文にもならず、徒労に終わる。ただ、最後のご褒美がゆったりとタバコを吸うことだった。同曲に対する愛情と情熱が成せる技だろう。
ラスト・シーンは英マンチェスターのインディーズ・レーベル「ファクトリー・レコード」の創設者、故トニー・ウィルソンを中心に同レーベルの興亡を描いた映画『24アワー・パティ・ピープル』のラスト・シーンにも影響を受けたそうだ。ニュー・オーダーやハッピー・マンデーズを抱えていたものの、放漫経営のためファクトリーは倒産。そのラストでは、無一文になってしまったウィルソンが、マンデーズのショーン・ライダーらとともに、古いビルの屋上で背中を丸めて震えている。散々、ウィルソンに迷惑をかけたショーンが「悪いことしたな、謝るよ」と言ってウィルソンに葉っぱを勧める、ウィルソンは「いいんだ、楽し かったからさ…ワオ、これ すごいな」、「バルバドス産だよ」、「どおりでね」みたいな会話をして映画は終わる……そんなイメージを「スカンピン」を使用して、ススキノでやりたかったという。「スカンピン」起用の意外な経緯であるが、映画会社と音楽出版社との直接交渉だったため、事務所には起用の本当の理由は伝わっていなかったようだ。ムーンライダーズはクリエイターにかくも長く愛され、常に刺激し続ける――その証明ではないだろうか。影響を受けたものは、その“恩返し”を自らの作品で行っているかのようだ。
改めて、『探偵はBARにいる2 ススキノ大交差点』を見直してもらい、「スカンピン」の役割を再確認して欲しい。
そういえば、『火の玉ボーイ』のジャケットも探偵風味のハードボイルドなイラストだった。“男のやせ我慢”は時代を超える。
かしぶち哲郎が亡くなった日のことは、とてもよく覚えている。吐く息がそのまま白く凍っていくような寒い日だったのだが、その知らせを告げるメールを読んだ瞬間に、時間そのものまでもが凍てついていくように...
日本の“シティ・ポップ”のオリジネイターにして、第一人者、数多の音楽家に影響を与えた南佳孝。今年でデビュー45周年になる“アニバーサリー”を記念して、8月8日に『摩天楼のヒロイン+5 45周年...
今日、6月6日は、高橋幸宏の誕生日だ。1952年、東京に生まれた。その存在が広く知られるようになったのは、サディスティック・ミカ・バンドのドラマーとしてだった。彼よりも技術に卓越した人はいるかも...
本日、3月14日は鈴木さえ子の誕生日。1957年3月14日、東京国立生まれ。61歳になる。鈴木さえ子といえばCINEMA(シネマ)やFILMS(フィルムス)での活動、ソロ・アーティスト、CMやア...
2月13日は矢野顕子の誕生日である。10代のころからクラブでピアノの弾き語りを始め、そのレコーディングが伝説となっている名盤『JAPANESE GIRL』でソロ・デビューしたのが1976年のこと...
映画『男と女』テーマ曲の作詞,ヨーロッパ・インディーズの草分け「サラヴァ」レーベルのオーナーとして広く知られるピエール・バルー。彼の人となり、そして人生の航路を見ると、既成のメディア業界が狭苦し...
『乙女の儚夢』のオリジナルリリースは45年前の1972年9月10日だった。「赤色エレジー」の漫画の原作者の林静一さんの世界をまるごとアルバムに込めたいと、ジャケットのデザインもお願いした。題字は...
鈴木慶一が、東京・大田区に誕生したのは1951年8月28日。俳優・声優をしていた父・昭生、昭生と同じ劇団文化座の研究生だった母との元に生まれた。70年のあがた森魚と出会って始まる数多の邂逅ととも...
6月11日、今日は傘の日です。傘は人間にとって必要なようで邪魔なようで、雨の日の鬱陶しいオブジェにかわりないながらも、なぜか人間の日常生活の中で欠かすことのできないロマンチックな小道具であり続け...
4月25日は、あがた森魚のデビュー・シングル「赤色エレジー」が発売された日である。と同時に、はっぴいえんどや大瀧詠一や細野晴臣のソロ・アルバム、それに、はちみつぱいやザ・ディランIIなど、日本の...
イモ欽トリオは、1981年4月6日からフジテレビ系で放送された「欽ドン!良い子悪い子普通の子」から生まれた、山口良一(ヨシオ)、西山浩司 (ワルオ)、長江健次(フツオ)の企画ユニット。放送開始直...
立花ハジメさんとの出会いは、僕がYMOのアシスタントをしていた頃に、プラスチックス時代のハジメさんがスタジオに遊びに来たり、その後の「H」「Hm」で現代音楽を取り上げたときは高橋幸宏さんがプロデ...
吉田美奈子のデュー・アルバム『扉の冬』は、トリオ・レコード内に発足したショーボート・レーベルの第一弾として73年の9月21日に発売された。<出来すぎてしまったデビュー作>といった感もあるアルバム...
1976年7月25日に矢野顕子の1枚目「JAPANESE GIRL」が、フォノグラムから発売された。A面は、AMERICAN SIDEと名付けられ、リトル・フィートのメンバーが参加している。メン...
初めてシュガー・ベイブの名前を聞いたのは、当時勤務していたユイ音楽工房所属アーティストの山本コウタローさん(山本コウタローと少年探偵団)からだった。「牧村さん、ラスカルズのようなバンドがいる」と...
南佳孝『摩天楼のヒロイン』は73年の9月21日に発売された。トリオ・レコード内に新たに設立されたショーボート・レーベルの第一弾となるもので、はっぴいえんどの松本隆が全面的にプロデュースしている。...
あがた森魚の背中を押したはボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」だった。何かを表現したい、歌いたいという衝動に駆られ、それを実践した。そして「赤色エレジー」でデビューしたのは、それ...
70年代のフォークは、岡林信康に継ぐヒーローを求めていた。71年に中津川でおこなわれた全日本フォーク・ジャンボリーにおいて、次世代のフォーク・ヒーローの候補に挙げられたのが、加川良であり、三上寛...
日本ロック史上に大きな足跡を刻むはっぴいえんど(1970-1973年)とYMO(1978-1983年)のリーダーとして活躍し、プロデューサー・作曲家としても、多くの才能あるアーティストや名曲を世...
40年前、1975年の本日5月24日、「ティン・パン・アレー・フェスティバル」が中野サンプラザで開催されました。そのステージには細野晴臣さんを中心とするティン・パン・アレー・チームと、大瀧詠一さ...
今から43年前(1972年)の5月13日・14日の二日間に亘って日比谷野音で開催された第4回『日本語のふぉーくとろっくのコンサート』。1970年9月に第1回が開催されたこのイベントは、“日本語の...
西岡恭蔵は、1948年の今日(5月7日)、三重県志摩半島に生まれた。日本フォーク&ポップス史にその名を刻むシンガーでありソング・ライターである。 text by 篠原章