2016年12月09日
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2016年12月09日
才人・三木鶏郎の下で放送作家からスタートし、作家として直木賞を受賞したほかにも、作詞家、歌手、タレント、政治家などマルチな才能を発揮した野坂昭如が85歳で没してから1年になる。酒好きで知られ、破天荒なエピソードも数知れず。そのせいか晩年は闘病生活を強いられたにしては意外なまでの長命であったという印象が強い。黒眼鏡の少々いかつい風貌で強気の発言が多いながらも、持ち前の茶目っ気で独特な魅力溢れる、実に愛すべき存在であった氏には、もう一度元気に振る舞う姿を見せて貰いたかった。12月9日は作家(ほか多くの肩書きを持つ)・野坂昭如の命日である。
作詞家・作曲家であり、優れたプロデューサーでもあった三木鶏郎の事務所に事務員として仕える様になったのは1955年のことであった。気に入られた理由が、掃除がうまかったからというのは面白いエピソードだが、もちろんそれだけではなかったであろう。翌56年、三木が新たに冗談工房を立ち上げた際には専務として、三木のマネージャーを務める。その時の社長は永六輔であった。翌57年にはテレビ工房の責任者となり、阿木由紀夫の名で放送作家として活躍し、一気に才能を開花させる。同じ三木門下の作曲家・いずみたくと組んでCMソングを量産するが、そのことが三木の下を去って独立するきっかけとなった。コンビの作によるCMソングには、「キスミー化粧品・セクシーピンク」「ハウス・バーモントカレーの唄」などがある中で、最も有名なのは“伊東に行くならハトヤ”“電話はよい風呂(4126)”のフレーズで知られるハトヤホテルのもの。長年使われて耳馴染みのある文化放送のコールサインも二人によるものだった。コマソン作家としての全盛期の様子は後の小説「水虫魂」に描かれており、同書は谷啓主演の『喜劇 負けてたまるか!』として東宝で映画化もされている。
さらに作詞家・野坂昭如の代表作といえるのが、「おもちゃのチャチャチャ」である。ただし、この歌は当初、音楽ヴァラエティ番組の挿入歌として1959年に作られた後、NHKの幼児教育番組『うたのえほん』で紹介される際に改編され、吉岡治によって詞も全面的に書き替えられたものが、多くの人々の知る形となっている。よって、現在親しまれているのは1962年の産。童謡としてはかなり新しい部類に属する歌で、翌63年の日本レコード大賞において童謡賞を受賞した。かなり大人向けの内容だった野坂によるオリジナル・ヴァージョンは、2009年に編まれたCD『ダークダックス大全』で現在聴くことが出来る。
1963年に「エロ事師たち」で小説家デビューを果たした野坂は、「アメリカひじき」及び「火垂るの墓」で、67年下半期、第58回の直木賞を受賞して、作家活動を充実させる一方、69年11月には「ポー・ボーイ/松浦の子守唄」でCBS・ソニーからレコードデビューして多彩なところを見せる。A面は黒人霊歌、B面は自らの作詞によるオリジナル。翌70年8月には「サングラスの男とビキニの女が長い長いアクビをしている時の唄/無頼考現学」をポリドールで吹き込み、さらに71年には歌手としての代表作となる「マリリン・モンロー・ノー・リターン/黒の舟唄」がコロムビアからリリースされた。「マリリン・モンロー・ノー・リターン」と「黒の舟唄」は共に、野坂と同様に三木鶏郎門下だった桜井順の作で、桜井はやはり膨大な数に及ぶCMソングを中心に活躍を遂げた作曲家。作詞としてクレジットされている能吉利人は、桜井の変名で、以降、桜井が旧友の野坂に詞を提供する際のペンネームとして使われている。「マリリン・モンロー・ノーリターン」は、1970年11月に開催された「合歓ポピュラーフェスティバル’70」で誕生した歌。「黒の舟唄」は第7回作詞大賞の特別賞を受賞しており、盲目のシンガー・長谷川きよしのカヴァーで広く知られる。
その後、野坂はエレックや東芝でもレコーディング。CD時代を迎えてからも多くのアルバムがある。自らも出演して歌ったCMソングでは、“みんな悩んで大きくなった”のフレーズが印象的なサントリーゴールドの歌が有名。かなり後、90年代終りの「ダニアースの唄」も強烈なインパクトの詞と曲が話題となり、この頃になると、本人は決して狙ってはいないであろうシュールな面白さが支持されて、若い世代からも新たな支持を得ていた。Pヴァインから出されたアルバム『野坂昭如のザ・平成唱歌集』などは再評価の声も高い。
≪著者略歴≫
鈴木 啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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