2015年06月23日

1970年の本日、岡林信康のセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』がリリースされた。今年で45周年ということになる。

執筆者:小倉エージ

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1970年の本日、岡林信康のセカンド・アルバム『見るまえに跳べ』がリリースされた。今年で45周年ということになる。


69年9月、岡林信康は蒸発し、人前から姿を消した。68年9月に「山谷ブルース」でレコード・デビュー。URC会員配布盤の『岡林信康リサイタル/休みの国』に次いで、69年8月、後にニュー・ミュージック・マガジンで日本のロック・アルバムの1位に選出された『岡林信康フォーク・アルバム第1集~わたしを断罪せよ』を発表した直後のことだった。


蒸発の理由は68年の5月以来、69年9月の蒸発まで、月平均25回のコンサートを実施してきたハード・スケジュールによる肉体的な疲労に加え、狭義なフォーク支持者による論争などに疲弊し、反発してのことだった。蒸発後、各地を経て京都郊外に居を構え、農作業に従事しながら活動の休止中、岡林はボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」に打ちのめされて以来、ディランへの傾倒を深め、新たな可能性をロックに求めようとしていた。活動への再開を目指した岡林をサポートしたのは元ジャックスの早川義夫だった。
まずは『岡林信康フォーク・アルバム第1集』に収録されていた「それで自由になったのかい」の再録音を皮切りにロックに取り組みはじめる。さらに早川義夫が見つけ出してきた稲葉正三(ベース)、小川敏夫(ドラムス)に渡辺勝(キーボード)を加えた3人が岡林のバックを担うことになった。収録前、河口湖での合宿中、早川義夫が驚くほどギターのコードには無知だったという岡林だが、メンバーには口移しでドラムやベース、キーボードのフレーズを伝えたというエピソードからすれば、岡林の頭の中には渦巻く《音》があり、それを具現化したい衝動に駆られていたことは明らかだ。
その3人をバックに「自由への長い旅」、「私たちの望むものは」を収録し、さらに岡林の活動再開当初、3人は共にステージにも立った。もっとも、岡林にとって彼らとの共演は岡林を満足させるにはいたらなかったようだ。
「ザ・バンドのようなバンドを求めているのなら」と岡林に、当時、ヴァレンタイン・ブルーと名乗り、後にはっぴいえんどとしてデビューする4人を紹介したのは私であり、岡林自身もそれを明らかにしている。
岡林の新作のための収録曲のバックを依頼された4人が取り組んだのは「ラヴ・ジェネレーション」、「ロールオーバー庫之助」、「堕天使ロック」の3曲。リハーサル時、岡林不在の間、早川義夫がヴォーカルを務めたこともあった。『見るまえに跳べ』にジャックス時代の早川義夫の作品が起用された経緯を私は知らない。岡林の新曲だけではアルバムを制作するには作品が不足していたのが理由のひとつだったと想像されるが、早川への敬意もあってのことだろう。


はっぴいえんどが最初のレコーディングに失敗して直後に収録されたその3曲は、オリジナルのジャックスのそれを凌駕している。簡潔でシャープでソリッドな演奏とグルーヴ。岡林の冷静な歌唱はそれらの作品がもつ批評性を的確に表現している。他に吉田日出子とのデュエットによる「NHKに捧げる歌」、木田高介がフルートで参加した「無用の介」も早川作品であり、ジャックス、ソロ作の『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』などとともに、早川作品への評価を高め、早川神話を増幅することになる。
一方で、岡林が書き下ろした新作、ラヴ・ソングであり自省の歌である「愛する人へ」での岡林の繊細で伸びやかな表情や、はっぴいえんどの丹念な演奏。作品そのものは岡林の初期プロテスト/トピカル・ソングに特徴的な直截表現を継承したトーキング・ブルース風的な作品ながら、軽妙なアレンジ、演奏と岡林のシニカルな歌唱が批評性を明確にする「おまわりさんに捧げる歌」や「性と文化の革命」。そして岡林にとって新たな旅立ちを物語る「今日をこえて」も当然見逃すことが出来ない。それらこそ岡林がロックに取り組もうとした姿勢を反映したものだった。


ことに「愛する人へ」や「今日をこえて」からは、作品の充実とともに岡林の強い意志がうかがえる。もっとも、はっぴいえんどの演奏は簡潔で的確だが、革新的な音楽展開による『ゆでめん』制作直後の演奏にもかかわらず、その面影は微塵もない。岡林のレコーディングではバックバンドとしての演奏に徹するということもあってのことだろう。同様に蒸発後の岡林にとって意味深い作品だった「自由への長い旅」、「私たちの望むものは」でのバックの演奏、音楽展開は脆弱だ。


それらは《音》、演奏やサウンドには執着せず、岡林の歌、その新たな意思の表明に重点を置いた早川の制作姿勢によるのは明らかだ。作詞、作曲家としては才能豊かな人物だが、音楽的な知識は乏しく、技術的な側面も含めたそれらのひけらかしを拒否し、否定し、あえてプリミティヴな《音》を志向した早川の音楽志向をそのままに反映したものだ。本作の制作にあたって岡林に自身の音楽志向、スタイルをあてはめただけのものだったといえよう。それは本作の弱点でもあるが、岡林の歌唱にはそれを補って余りあるだけの力強さ、豊かな表現力、説得力があった。岡林が生んだ傑作の1枚に挙げられるのはそうしたことに由来する。
『見るまえに跳べ』の完成直後、岡林ははっぴいえんどとライヴ活動を共にすることになる。結果、両者のコラボレーションは演奏を重ねるごとに密度を濃くし、音楽内容の充実とともに、岡林が望んでいた《ロック》による表現の具現化と充実を高め、ヴォーカリストとしても大きく飛躍した。70年夏の中津川フォーク・ジャンボリーでのライヴでの記録、それに続いた2作のシングル、『岡林信康コンサート』がそれを物語る。

岡林信康

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