2016年04月26日
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2016年04月26日
永島達司氏は1999年5月2日に73歳で亡くなった。葬儀に参列した顔ぶれがその人脈の幅広さを物語っていたのだけれど、国内はもちろん、海外にも永島さんを尊敬し、また時には畏怖の念にも似た憧れの対象とした人が少なくないことを実感として知っている。僕も間違いなくそういう一人だ。
「ビートルズを呼んだ男」、というのが最も一般的かもしれないが、永島さんの功績はそうしたセンセーショナルな話題にとどまらない。来日した海外アーティストが本国に戻り、それぞれが異口同音に素晴らしい体験談を周囲に伝えることで伝説が伝説を生んだのだろう。ポールやジョージが長い間連絡を取り合っていたのも友人としての永島さんを頼りにしていたからだ。いつだったかジョージからの電話で彼の家に日本庭園を造りたいので庭石(!)を何とかして欲しい、というリクエストがあったらしいが、この手の話は尽きることがない。ボブ・ディランが初めて来日した時に永島さんあてに残したポスターには「アルバートにあげたのと同じ風呂桶を俺にもくれよ」と書いてある。マネジャー(アルバート・グロスマン)に贈ったヒノキ風呂を気に入ったディラン本人も欲しがった、というわけだ。大洋音楽の社長室には、カレン・カーペンターが自分で刺繍した「だーいすき」という額縁が飾られていたのだけれど、この一言がすべてを雄弁に物語っている。
僕が初めて永島さんに会ったのは1972年頃だった。雑誌記者として取材で来日アーティストの滞在するホテルに行くようになったその当時を今でも鮮明に覚えている。ロビーをアーティストと談笑しながら歩いて来て目が合うと、駆け出し記者の私にも丁寧にあいさつをしてくれたのだ。その後しばらくして、大洋音楽に入社。永島社長の部下として仕事をするようになってからほぼ四半世紀、私にとっての永遠のボスであると同時に生涯の師として多くを学ぶことになる。その間、永島さんの意外な素顔に接する機会も少なくなかったが、それも含めてすべてが貴重なレッスンだったような気がする。
決して「あれをしろ、これはするな」といった命令をすることのなかった一方で、「こうするべきなんだろうな」と考えさせられる場面では逆に慎重になりすぎると「もっと好きにやればいいよ」などと言う優しさにも溢れた人だった。海外アーティストの著作権獲得交渉で、弁護士とのやり取りに弱気にならない姿勢を貫くことができたのはそんな言葉があったからだ。常にユーモアのセンスに満ちていて、海外からのアーティストやマネジャーとのやり取りに国際人としてのあるべき姿を見せられたことが自分にとってどれほど大きなヒントとなったかは計り知れない。
自分は飲まないにもかかわらず、ワインに詳しいことにも驚かされたし、おかげで何も知らない私も少しづつワインを知るようになった。海外からの友人・知人には自ら選んだ銘柄のワインを到着前のホテルに届ける手配を忘れず、時には持参することもあった。忘れられないのは、来日した数々のアーティスト、中でもセルジオ・メンデスとの会食だ。六本木のレストランに同席して高価なワインをごちそうになったのは僕にとっていろいろな意味で貴重な経験だった。テーブルに用意されたワイン・リストを見て「こんなの見せたらとんでもないことになっちゃうよ」とソムリエに冗談を言うと、案の定、セルジオが選んだのは中でも飛び切りのボルドー。帰り際の支払いの時には笑顔を見せながら、「やれやれ、まいったな」と。それでも楽しそうな表情でセルジオと肩を組んで店を出るあたりは決して誰にも真似できない所作だ。ちなみにセルジオのホテルに届けたのはワインではなく、帝国ホテルにもオークラにも置いてなかったキューバ産の葉巻だった。
無類の麵好きが知られる永島さんと会社近くのイタリアン・レストランで昼食をとったときには、うどんのようにパスタをズルズルっとすするいたずらっぽいしぐさにびっくりしたことも。そんなお構いなしの姿が妙に微笑ましかった。晩年、医師から禁煙するように言われていたことを知っていた私は、気を利かせたつもりでレストランの禁煙席で早めに待つようにしていたのだが、その都度「ここじゃタバコは吸えないじゃないか」とにやにやしながら言って当惑させられたことも。とにかく、何を言っても、何をやってもその一流のスタイルは変わらない。
思い出を紐解くとひとつひとつの場面が浮かんでくるのだけれど、どれもこれも感謝しなければならないことばかり。プライベートな話は胸にしまっておくとして、恩返しができないうちに再び会えなくなってしまったことが残念でたまらない。
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