2017年09月20日
スポンサーリンク
2017年09月20日
1972年5月14日だったかな? 第4回「日本語のふぉーくとろっくのコンサート」というタイトル! これも定かではありませんが、とにかくデビュー1年前に東京に武者修行に来たのです。場所はハッキリ覚えています。日比谷野外音楽堂で僕等の出演のひとつ前が人気上昇中の「猫」というフォークグループでした。
当時、関西では人気のあったTHE BAD BOYSのメンバーを大阪からスカウトして4人を東京に連れて来た上野氏は、関東のステージでどこまで通用するかを試したかったと言ってました。すでにザ・フォーク・クルセーダーズや、はしだのりひことシューベルツのマネージャーをやっていた彼の本心はブライアン・エプスタインになりたかった様です。
ところが、その日、彼の心配とは裏腹にステージは大ウケのライブとなり、翌年のデビューへの足掛かりになったのです。
1973年5月1日、遂に上京。実は、私以外の3人は東京進出を強く拒んでいました。ビートルズがリバプールからロンドンに行って成功した様に、首都東京に行かなければ何も出来ないよ! と何度も説得してやっと連れて来たメンバーは不安がいっぱいだったのかも知れません。私は自信に溢れていました。
先ずはレコード会社のオーディションを受ける事になってワーナーパイオニアのスタジオでオリジナルナンバーやビートルズナンバーを何曲か演奏しました。結果は不合格でした。ビートルズがデッカのオーディションに落ちた状況と似てます。
そして2社目、運命の東芝EMIレコードのオーディションに 受かったのです。ディレクターはザ・リガニーズにいた新田さんです。
ひと通りオリジナル曲を演奏し、最後に、「君達の得意な曲を聴かせて欲しい」と言われ、迷わずビートルズナンバーを歌いました。ところが皮肉なことにそれが大いに喜ばれ、結果的にはこれが『MEET THE BAD BOYS』を作ろうというキッカケになったのです。
僕等は1年先輩のキャロルやチューリップの様に、オリジナル曲でデビュー出来ると思っていました。キャロルはビートルズのデビュー前のイメージ、チューリップはビートルズの後期のイメージでやっていたので、僕等は一番カッコいい初期のビートルズの様なオリジナル曲を目指そうと考えていたのです。
ところが、デビューシングルは吉田拓郎の「ビートルズが教えてくれた」で、デビューアルバムは『MEET THE BEATLES』のパロディにしようとスタッフ内で決められてしまいました。今更大阪に帰れない僕等は従うしかなかったのです。
当時は大胆で斬新なアイディアだったかも知れないけれど、僕等には迷惑な話でした。
赤坂溜池にあった東芝レコードの第7スタジオでレコーディングは行われました。アルバムは徹底的にビートルズと同じにしようという事でジャケットまでこだわりました。スタジオには最新の8チャンネルのレコーダーがすでにありましたが、基本的には2ャンネルしか使わないという事になりました。
でも、どうしてもあの雰囲気が出せません。機械も状況も違う訳ですから。ポールの清水君はヘフナーとリッケンバッカー、フェンダープレシジョンを使い、ベースアンプはVOX。ジョージの川端君はフェンダーテレキャスターで、私は当時日本に一本しかなかったリッケンバッカー、アンプはフェンダーツインリバーブ。リンゴの城間君はラディックで彼が一番ビートルズサウンドに近かったですね。
面白かったのは「Please Please Me」でジョンが2番の歌詞を間違って歌ってるので同じ様に歌おうと、その後の“Come On!”でジョンが笑って歌う箇所までコピーしましたが…この部分は笑えましたね。
シングル曲の「ビートルズが教えてくれた」に関しては、スタジオに行ったらすでにオケ(カラオケ)が用意されていて、僕等はボーカルだけ入れれば良いという事で、この一件はかなりショックでした。オケは六文銭のメンバーで録音されていた。何故? っていう感じでメンバーも凄く憤慨しました。モンキーズじゃないんだから!
結局、ブツブツ言いながら歌いましたけどね。スタジオ内の不満は全てミキサー室に筒抜けで、ディレクターの新田さんから「君達!嫌なら帰っていいよ!」と言われてスタジオを飛び出す一幕もありました。慌ててマネージャーの上野氏が止めましたけどね。
デビュー後は、ビートルズが大好きなファンからは大いに支持されました。ビートルズのステージを再現する訳ですから。僕等も、ステージを見に来てる人達から「ジョン!」「ポール!」とか叫ばれて、気持ち悪かったです。
全く自分達が描いていたデビューとは違う方向に進んで行ってしまい、毎回、何でビートルズばかりを歌ってるのだろう? と自問しました。それでもデビュー2年目の頃にはオリジナルもちょこちょこ入れましたが、やっぱり来てる人達はビートルズナンバーを期待している人達が圧倒的でした。
スタジオワークで驚いたのは、録音スタッフにほとんどビートルズの知識がなかったことです。録音技術は認めますが、ビートルズの曲に関しての知識は僕らの方が詳しかったのです。でも、当時はまだ曲の細かいニュアンスをうまく伝えることができませんでした。
だからもう言う通りにするしかなかった。違うと思ってもう1テークやりたいと言っても理解されず、拒否されてしまい、くやしい思いをしました。
それも今となっては良い思い出です。
©2016Yellow Doragon
≪著者略歴≫
廣田龍人/リッキー廣田(ひろた・りゅうじん):THE BAD BOYS として、1973年9月20日、東芝EMIレコードよりアルバム『MEET THE BAD BOYS』でデビュー。ビートルズの完全コピーバンドとして全国のビートルズファンに認知される。現在はリボルバーのリーダーの他、ソロ活動を中心に「リッキー&ミッシェル」「ホットレッグス」「ビーブラッズ」など幅広く活躍。
1979年(昭和54年)の本日、12月20日は、財津和夫の2枚目のソロシングル「Wake Up」がリリースされた日だ。時計ブランドのCMに採用され、オリコン最高3位、45万枚以上の売り上げを記録...
70年代前半のフォークソング・ブームを支えたかぐや姫は、75年に解散。南こうせつ、山田パンダは、ソロとしての活動を始め、そしてショーヤンこと伊勢正三は、「猫」のメンバーであった大久保一久と「風」...
小学5年生の時に、初めて自分でレコードを買った。買い物ついでに地元のレコード屋に行き、なぜ「それ」にしたのかも、なぜ買おうと思ったのかも忘れてしまったけれど、手にしたのは、よしだたくろうの「結婚...
1973年4月20日、チューリップの代表曲のひとつとなった「心の旅」がリリースされた。発売から数か月かけてチャートの1位まで上り詰め、チューリップは大きく脚光を浴びることとなる。けれど、「心の旅...
ぼくが初めて岡本おさみさんの歌のことばに接したのは、1971年の8月、渋谷の小劇場ジァンジァンでの吉田拓郎の3日連続ライヴだった。「岡本おさみという人が変な歌をつくりまして……」そう言ってうたわ...
今から41年前の今日1975年4月13日、燃え盛る炎の中でエンディングを迎えたキャロル最後のステージ。それはキャロルとひとつの時代の終わりを象徴していた。text by 中村俊夫
みうらじゅんが勝手によしだたくろうを語る連載「ぼくの髪が肩まで伸びて たくろう!」。前回に引き続き4枚目のオリジナル・アルバム『伽草子』のB面、勝手に全曲解説も後半となります。
本日は矢沢永吉の誕生日。1stソロアルバム『I LOVE YOU,OK』(1975年9月21日)かからはちょうど40年となる。キャロル解散前からこのアルバムのデモテープ制作に着手し、解散直後の5...
今日9月3日は昨年11月19日に亡くなったジョニー大倉の63回目の誕生日。日本語ロックを一歩前進させたキャロルの歌詞の生みの親であり、ロックンロールを日本語で違和感なく歌うことを追求していた彼が...
1973年6月25日にリリースされたのが、キャロルのデビュー曲以来、ソングライティング・コンビ「ジョニー&矢沢」の最高傑作と言っても良い「ファンキー・モンキー・ベイビー」だった。text by ...
今から43年前(1972年)の5月13日・14日の二日間に亘って日比谷野音で開催された第4回『日本語のふぉーくとろっくのコンサート』。1970年9月に第1回が開催されたこのイベントは、“日本語の...