2018年12月20日
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2018年12月20日
1979年(昭和54年)の本日、12月20日は、財津和夫の2枚目のソロシングル「Wake Up」がリリースされた日だ。時計ブランドのCMに採用され、オリコン最高3位、45万枚以上の売り上げを記録したこの曲のレコードは、意外な面から当時のレコード界のファッション指向を物語ってくれるアイテムでもあった。
79年は、初頭からアリス「チャンピオン」、甲斐バンド「HERO(ヒーローになる時、それは今)」が相次いでオリコン1位を記録、オフコースにも年末の大ブレイクを予感させる初のTOP40ヒット「愛を止めないで」が生まれ、エキスプレス・レーベルの勢いが止まらなかった年だった。となると、しばらく大ヒットから遠ざかっていたチューリップにもそろそろでかいのが、と期待されるのは当然のこと。大ヒットからの揺り返しによる内省的路線からのさらなる揺り返しで『MELODY』『WELCOME TO MY HOUSE』といった充実したアルバムが続き、ライヴバンドとしては無敵の勢いを保っていたにも関わらず、75年の「サボテンの花」を最後に20位以内に入るヒットに恵まれない、そんな状況を打破したのが、7月にリリースした「虹とスニーカーの頃」だった。結果的に「心の旅」以来6年ぶりにベスト10の壁を突破し、6位まで達する大ヒットとなる。
その合間を縫うように78年5月、バンドではできない実験的な音楽性を反映させた初のソロアルバム『宇宙塵』をリリースする動きに出たのがリーダー・財津和夫だ。このマニアライクなアルバムからひっそり「二人だけの夜」がシングルカットされたが、チャート入りは逃している。「虹とスニーカーの頃」のヒットを受けて、次に何が来るかという期待をテレビから流れるコマーシャルが煽ったが、そこに使われた楽曲はチューリップの新曲ではなく、財津ソロ名義のセカンドシングルだったのである。
解りやすく耳に残るCMでの使用部分だけではなく、Aメロで展開される、嫁ぐ娘をリリカルに送り出す歌詞も大きな共感を得て、当然の大ヒット。この時2位にいたのは、遂に大ブレイクの境地に達したオフコース初のTOP10ヒット「さよなら」だった。なお、この曲でドラムを叩いているのは、翌年のシングル「ビューティフル・エネルギー」で甲斐よしひろからリードボーカルの座を奪うことになる、甲斐バンドの松藤英男である。
さて、筆者がこのコラムの核心に設定したのはここからだ。
「Wake Up」の初回プレス盤を手に取って、歌詞カードと逆の面に目をやると、カンパニースリーブの色が東芝EMI(当時)の通常のそれとは違うライトグレーなのにまずおやっとなる。そしてレコードを取り出すと、その盤は鮮やかな無色透明だ。当時目玉が飛び出るほどびっくりされた方も多いのではないだろうか(2ndプレス以降は通常の黒盤、緑のスリーブになっているが、通常のエキスプレス・レーベルとは違う特別デザインレーベルは継続して採用されている)。
79年を皮切りに80年代前半に至るまで、日本のレコード界の隠れトレンディアイテムとなった「カラーレコード」。そのオリジンはいつ、どこで生まれたのだろう。
1951年、45回転のシングルレコードが米国の音楽市場に初めて現れた頃、RCAビクター(当時)がジャンルによってレコードの色を変えるという特殊マーケティングを試みたが、長続きしなかった。これが「黒くないレコード」の発祥と考えられている。その後、コロムビア、アブナック、ベアズヴィルといったレーベルが、プロモーション用にカラーレコードを制作し、その一部がコレクター市場に流出したり、「普通ではないレコード」を売り物にしたい海賊盤業者がカラーレコードを作れるプレス業者に目をつけ好んで採用し、マニアの購買心を煽るなど、一般的ではない場所で静かに生き延びていたのである。
それが一気に表舞台に躍り出たきっかけは、70年代後半に英国で勃発したパンク〜ニューウェイヴの嵐だ。海賊盤業者同様、ユニークなアイテム製造に意欲を燃やしていた当時のインディ・レーベル群が、カラーレコードに着目。ポスタージャケットや変形スリーブと並ぶ定番としてこぞって採用された。
そんな静かな熱気に煽られたのか、78年に米国のキャピトルが、映画版『サージェント・ペパーズ〜』公開に便乗して、ザ・ビートルズの通称『赤盤』『青盤』『ホワイト・アルバム』をそれぞれに相応しい色のレコードで限定発売し、コレクターの間で奪い合いとなった。ヨーロッパ各国でも、ビートルズやザ・ローリング・ストーンズのアルバムのカラーレコード限定再発現象が勃発し、それらが日本の輸入レコード店の店頭に並び密かな人気を得た。
静電気発生軽減を謳った東芝の「エバークリーン・レコード」(所謂赤盤)や、コロムビアが出していた子供向け赤盤EPのシリーズ「コロちゃんデラックス」のおかげで、黒以外のレコードもあるという概念がある程度一般化していた日本でも、78年に至るまでの間、米国盤に習ったグランド・ファンク・レイルロード『アメリカン・バンド』や吉田拓郎『ぷらいべえと』のそれぞれ初回盤など、黒でも赤でもないレコードが時折市場に出たりしていたが、輸入盤の人気を受けてメジャー各社も次々とファッショントレンドに乗っていく。ビートルズの『赤盤』『青盤』は78年11月に国内盤カラーレコードが早々と限定リリースされていたが、79年に入ると英国のニューウェイヴ精神に則ったのか、P-MODELのファーストアルバム『IN A MODEL ROOM』が8月にピンク盤で出たり、6月に発売されたクイーンのライヴ盤『ライヴ・キラーズ』も国内初回盤は赤と緑の2枚組で、のちに世界的マニアアイテムの仲間入りをしている。
そして決定打となったのが、9月25日リリースされたYMOのセカンドアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』だった。80年になって「一家に一枚もの」の仲間入りをするこのアルバムの初期プレス「イエロー」ディスクを手にできたのは、一部の「尖った」人達だけだった。その希少性に刺激されたのか、翌80年から初回盤をカラーレコードでプレスするという販売戦略が百花繚乱状態を巻き起こす。高橋幸宏や坂本龍一のソロ、関連人物とも言える高中正義まで含めたYMO周辺から、大場久美子などアイドルに至るまで。変わったところでは、ワーナー・パイオニア(当時)が所属アーティストの代表曲をカラーの12インチシングル、透明アクリルケース入りで限定リリースした「Fashion Disk」シリーズ(まさかの小林幸子「おもいで酒」は紫盤!)や、子供受けを狙ってクラウンがリリースした童謡のLPシリーズ(実は筆者が最近コンプリートしようと必死になっている)あたりも挙げておきたい。
そんなトレンドの中、あえて色さえつけず透明レコードで勝負した「Wake Up」。ある意味、中身の音に相応しい見た目ではないか。初回盤は何枚作られたのか定かではないが、発売1ヶ月程で市場から消えたのは確か。筆者もいざ買おうとしたら、通常の盤だったことが店頭でスリーブを見てわかったので諦めた思い出がある。その後、中古で見つけて買ったのは言うまでもない。やはり、希少なもの、珍しいものには薬指が動く。それが好き者心理というものである。レコード人気復興の今、カラーレコードが再びこぞって作られている現状には、興奮を隠しきれない。
もう一つのマニアックトレンド、「ピクチャーレコード」について語る余地がなくなってしまったが、似たようで全く違う話になるのは確実だし、姉妹コラムとして別のチャンスに恵まれることを祈りたい。
チューリップ「虹とスニーカーの頃」財津和夫「二人だけの夜」「Wake Up」狩人「女にかえる秋」ジャケット撮影協力:丸芽志悟&鈴木啓之
≪著者略歴≫
丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。2017年 5月、3タイトルによる初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』が発売。また10月25日には、その続編として新たに2タイトルが発売された。
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