2018年04月25日
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2018年04月25日
二人の老女を描いた絵がジャケットの真ん中に配されている。フランスの作家で評論家、アンドレ・モーロアの作品『パリの女』に、オランダの写真家ニコ・ジェスが添えた写真の1枚を摸写したものだ。1959年、朝吹登水子訳で発刊された同書の紀伊國屋書店版では、その写真に「万年女学生」とタイトルがついている。
写真はモノクロだが、そこに色彩を加えて絵にしたのは、ジャケットのデザインも手掛けた金子辰也とある。山下達郎が、1972年に自主制作で出したアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』のジャケットの線画を描いたのも、金子だった。
ともあれ、それが、シュガー・ベイブが残した唯一のアルバム『SONGS(ソングス)』だ。ジャケットは、その絵を囲む形で白地に、英文字でタイトルSONGSとグループ名SUGAR BABEとだけ記されている。他には、彼らが所属するレーベルのナイアガラ、発売元のレコード会社エレックなどの英語表記がある。ナイアガラは、はっぴいえんど解散後に大瀧詠一が立ち上げた、いまでいうところのインディペンデント・レーベルで、右上にあるNAL-0001とは、同レーベルからの第一弾を意味していた。
白地と書いたが、ぼくの手元にあるのは、日に焼けたり、手あかがついたりで、すっかり黄ばんでいる。何時いただいたのだろう、山下達郎、大貫妙子のお二人のサインをそんなところに浮かばせているのが心苦しいというか、申し訳ないくらいだ。背表紙は、もちろん裂けていて、そのままだとレコード盤が落っこちるのでセロテープで補修してある。随分とくたびれているなあ、と思ったが、それもそのはずで、このアルバムが発売されたのは、1975年4月25日、いまから43年も前のことだ。
ただし、中身の音楽のほうはちっとも色褪せていない。それどころか、今回、改めて針を下したけれど、山下達郎、大貫妙子の歌声はもちろんだが、演奏もキラキラと輝き、溌溂と弾んでいて驚いた。そもそも、山下、大貫の二人がいたということもあり、シュガー・ベイブは伝説のバンドとして語り継がれているが、このアルバムが発売された1975年当時、華やかにスポットライトを浴びていたというわけでない。
いまもなお現役で、それどころか、自らの音楽と真摯に向き合いつづけている二人だが、当時、45年後の現在のような姿が想像できただろうかと本人たちに問えば、きっと、否定的な答えが返ってくるだろう。殊に、彼らにとって主な活動の場となっていたライヴでは、気の毒なくらいのときもあった。
関西からサウス・トゥ・サウスやウエストロード・ブルース・バンドなどが進出、他にも、センチメンタル・シティ・ロマンス、めんたんぴん、久保田麻琴と夕焼け楽団、鈴木茂率いるハックル・バックなどが東京周辺のライヴ・ハウスを賑わしていた頃だ。シュガー・ベイブは、彼らのように、観客を巻き込み、盛り上げながら、ライヴで真価を発揮できたかと言えば、必ずしもそうではない。山下は不機嫌そうにさえ見えることがあったし、大貫に至っては、自信なげで緊張が伝わってくるくらいだった。
でも、だからこそ、彼らを前に心ときめかしたのだと思う。彼らが、自信ありげに堂々と演奏していたら、当時あんなにも歌たちが表情を持ちながら、説得力をもって伝わってきたかどうかとも思う。そもそも、ポップ音楽のバンドに男性と女性の看板シンガーが共存し、各自が曲を作ってリードをとるという形態からして当時は珍しくて、馴染みが薄かった。
山下、大貫の二人に、村松邦男、鰐川己久男、野口明彦の5人が裏ジャケットに写っているが、それが、ここでのシュガー・ベイブだ。他に、上原裕がドラムス、木村真がパーカッションで、プロデューサーの大瀧詠一も、布谷文男と一緒にボーカルで参加している。アレンジは全て山下で、その山下と大貫が主に曲を書き、彼らの代表曲ともなった「DOWN TOWN」は、山下と、伊藤銀次の共作となっている。伊藤は他にも、「すてきなメロディー」、「今日はなんだか」にも、共作という形でかかわっている。
シュガー・ベイブの名刺代わりとなる「DOWN TOWN」だが、日本のポップ音楽の中でも、決定的なギターのイントロを持つ一つとしても親しまれるようになったし、「今日はなんだか」や「いつも通り」などを含めて、ホーンやストリングスを使ったり、欧米からの影響を生かした工夫や、当時では珍しい試みも多かった。
大貫の「蜃気楼の街」、山下の「雨は手のひらにいっぱい」も、二人それぞれの個性が覗けるようで、ぼくは好きだった。「すてきなメロディー」のように二人のデュエットがきけるのもある。リズムが印象深い「ためいきばかり」は、村松邦男のギタリストらしい作品で、リード・ボーカルも彼がとっている。
ロックだとか、フォークだとか、まだ様々な議論が交わされていた時代だ。それらとは別のところで、頑ななまでに音楽を音楽として伝えようとした彼らの潔さというか、意地のようなものが、いまにして思えば、『SONGS』というタイトルからして感じられる。そして、東京という都会で、ポップ音楽に夢中になった若者たちの青春の熱意や創意が、爽やかにほとばしっていて、ライヴを含め、それに触れる機会は沢山あったのに、もっともっと触れておけばよかったと思ったりもする。いずれにせよ、1975年という季節に、目に見えない革新を抱えながら、東京という街を一気に駆け抜けていった風は、過激なくらいに爽やかで、そしてちょっぴり切なくもあった。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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