2019年02月07日
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2019年02月07日
今となっては無数にいるが、最初に歳下で尊敬したのが藤原ヒロシだ。それまで僕がリスペクトしていた人は歳上で、もともとファンだったり、前から評判を聞いていたような人だったりしたのだがヒロシはNOBODY KNOWS。あの頃は…。
初めてヒロシと話したのは、大貫憲章さんに新宿のツバキハウスで紹介してもらった1982年だからもうかなり前になる。あの時代のロンドンのID やFACEといった雑誌に出てきたりするようなニューロマンティックやブリッツキッズみたいな雰囲気が全身から出ていて、その頃たくさんいたデザイナーズブランド着ているコとは明らかに違った。
最初に見かけたのも中野サンプラザであったバウワウワウとマッドネスのライブの時でバウワウワウのメンバーと同じような格好でロビーにいたから一際目立っていた。その時自分は大貫さんと会場にいたのだが、ライブよりもヒロシの方が気になって大貫さんに聞いたのが前述のツバキでの出会いにつながる。
出会った時に「君、お洒落だね」って言ったか言ってないかは今となっては伝説だが、セディショナリーズの服の話とか、あと、ギターは弾いているって言っていたので割とすぐに大貫さんベース、俺ドラムっていう酷いリズム隊、まあ、良く言えばニューウェーブ的な緩いリズム隊でヒロシにギター&ボーカルでザ・ビートルズの「ALL MY LOVING」をレゲエっぽい感じでやってスタジオでリハしたことあった。
今と違って82 年とかはヒロシみたいにファッション的にセンスの良いタイプの人は楽器やっている人が少なかったから、貴重だったのだ。で、その後だ。DJやテープ編集が得意だと、知ったのは。だから最初はファッションで、ギターも弾いているっていうのがその次。そう思うと今のヒロシの活動は割と出会った頃のスタイルなのだな。何をするにしても一通りこなす感じと笑いながら時折真剣な眼差しになるのが印象的だったし、何と言っても「今、これがいい」というチョイスのセンスは抜群だった。その頃、やっていたバンドを抜けた自分にとって彼とならサムシングニューが始められる予感がした。
1985年から87年にかけて、ヒロシが有名になった時と、僕と活動を共にしていた時期は基本、DJと選曲が本業だった。時折しもそのテのサウンドとラップが日本でも世に知られていく時だったし、ちょうど世の中的にバブルで、僕らもイベントでDJとラップを30分ぐらいやっただけで30万とか即金でもらい、現場で半分に分けたりした。それをそのままヒロシはポケットに突っ込んで帰っていった。そういえば今も財布を持たないっていうのを最近知った。ブレない男だ。
そんな時代に僕がヒロシと音楽制作していた時はドラムマシーン、テープエディット、サンプラーが主流になっていく頃で、打ち込みのビーツにあわせてターンテーブルでレコードをこすって、ラップ乗っけて、みたいな作業だったが、ザ藤原ヒロシ的な音楽がはじまるのはその後、だ。小泉さんのアルバムが有名だが、僕が最初に好きになったヒロシの作品はいとうせいこうとやったSUBLIMINAL CALMの「かすかなしるし」。名曲だと思った。そしてソロ名義の「NATURAL BORN DUB」、UAのデビュー曲などなど。90年代頭に傑作をいっぱい作っている。その頃ヒロシは服も自分で始めだした頃だから、今に至る始まりは90年代の初め、だね。
僕が思う藤原ヒロシは常にジェントルタッチ。それはターンテーブルでスクラッチをするときもそうだったし、今のギターもそう。運動神経もいいからボードスポーツも優雅にトリックが決められる。僕なんかとは真逆なのだ。よく一緒にやっていたな、とも思うけど、音楽方面の相方はその後もみんな真逆かも。
タイニーパンクス然り、竹中直人さんとの高井戸然り、いとうせいこうとのSUBLIMINAL CALM、川辺ヒロシとのHIROSHI Ⅱ HIROSHI。近年ではYOKINGとAOEQ。相方はみんな酒飲むイメージあるけど、ヒロシは呑まない。
丘の上のパンクはどこまでいくのだろう…。
≪著者略歴≫
高木完(たかぎ・かん):DJ音楽プロデューサー/クリエイティブ・ディレクター。K.A.N CO.LTD 代表取締役。79年、パンクバンドFLESHに参加。81年にバンド東京ブラボー。84年にDJ開始。85年、藤原ヒロシとタイニーパンクス結成。その後NYで出会ったヒップホップをいとうせいこう達と日本に伝導。88年日本初クラブ・ミュージック・レーベル『MAJOR FORCE』設立。90年代はソロで活躍。近年は『APESOUNDS』『UNDERCOVER』をはじめ、様々なカルチャーシーンとコラボレーションしている。
2018年、30周年を迎えたMAJOR FORCEを再始動。
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