2019年01月23日
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2019年01月23日
ミス・セブンティーンから選出されたセブンティーンクラブ、さらにおニャン子クラブのメンバーを経てソロ・デビューした工藤静香は、『夕やけニャンニャン』の最終回の日にリリースされたデビュー・シングル「禁断のテレパシー」でいきなりオリコン1位を獲得。その後も4枚目の「FU-JI-TSU」、5枚目の「MUGO・ん…色っぽい」と連続1位を記録した後、6枚目のシングルとしてリリースされたのが「恋一夜」だった。1988年12月28日にリリースされてから年を跨いで1989年1月23日付のチャートで1位を獲得し、3作連続、通算4枚目の1位曲となった。つまり発売は昭和、チャート1位獲得は平成ということになる。1993年の「慟哭」で更新するまでの間、自己最高セールスを記録した工藤静香の代表作のひとつ、「恋一夜」の1位獲得は今からちょうど30年前のことであった。
東京都板橋区出身の工藤は、父親の出身地である青森で幼少期を過ごした時代もあったという。小学生の時には劇団「東俳」に所属して早くも芸能の仕事に従事し、中学2年生の時に第3回「ミス・セブンティーンコンテスト」に出場して特別賞を受賞したのをきっかけに、同コンテスト出身の木村亜希(後の清原亜希)、柴田くに子(後の森丘祥子)と共に“セブンティーンクラブ”を結成し、1985年1月にCBS・ソニー(現・ソニーミュージック)からレコードデビューしている。2枚のシングルを発表して早々に解散した後、高校進学後の1986年5月には、フジテレビ『夕やけニャンニャン』のオーディションコーナー「ザ・スカウト アイドルを探せ!」で合格し、“おニャン子クラブ”の会員番号38番として人気を博した。ソロ・デビューを期待する声が高まる中、『夕やけニャンニャン』最終回の日にデビュー・シングル「禁断のテレパシー」がリリースされたのは、彼女が番組でも特別な存在感を示していたことの証明といえるだろう。
デビュー曲「禁断のテレパシー」、2枚目の「Again」は秋元康の作詞、後藤次利の作・編曲、3枚目の「抱いてくれたらいいのに」は松井五郎、4枚目の「FU-JI-TSU」と5枚目の「MUGO・ん…色っぽい」は中島みゆきと作詞陣は変わるも、作・編曲は一貫して後藤次利が手がけ、6枚目のシングル「恋一夜」は再び松井五郎が作詞を担当した。発売が告知された当初は「夢一夜」とされていたものが変更されたのは、南こうせつの既存曲に配慮してのものだったろうか。当時は南が工藤と同じポニーキャニオンの所属だったことからも想像に難くない。箱根彫刻の森美術館のPRソングだったというタイアップ情報は印象に薄いものの、後藤次利とのタッグもすっかり板に着き、彼女の作品の中では比較的抑揚が効かされた難しいメロディをめきめきと向上を見せていた歌唱力で歌い上げている。松井五郎による大人っぽい詞は、工藤本人が当時一番心を揺さぶられた詞だったと後に述懐しており、そのドキドキを抑えるため、無意識にお腹に手を当てながら歌うことで緊張を凌いでいたらしい。
2週連続で首位を獲得して60万枚を超える売り上げを記録。年間チャートでも6位に輝き、1989年を代表するヒット曲のひとつとなった。前年に「MUGO・ん…色っぽい」で初出場を遂げた『NHK紅白歌合戦』にも、本曲で2度目の出場を果たしている。当日は風邪を引いてしまい、発熱をおしての出演だったとのこと。ちなみに次作の「嵐の素顔」、最後のアナログ盤発売となった「黄砂に吹かれて」でも1位、翌1990年も「くちびるから媚薬」「千流の雫」と後藤次利作品で1位を連ねたほか、1991年の「メタモルフォーゼ」から1992年の「声を聴かせて」までは4作連続で松井五郎が作詞を担当。そして次の通算18枚目のシングル「慟哭」(1993年)で自己最大ヒットを記録した。同作の詞に代表される中島みゆきとの相性の良さも特筆に値する。身を削りながら歌うような真摯な歌いっぷりは、時折歌声を聴かせてくれる今もなお健在である。
工藤静香「禁断のテレパシー」「MUGO・ん…色っぽい」「恋一夜」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
≪著者略歴≫
鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。
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