2019年04月15日
スポンサーリンク
2019年04月15日
本日4月15日は53年前の’66年に、ザ・ローリング・ストーンズにとっても転機になったアルバム『アフターマス』が最初に英国で発売された日だ。同タイトルながら、米国での音楽業界標準のやり方に合わせて一部選曲し直し、ジャケットも変更した米国編集版も同年7月2日にリリースされている。
転機の意味に関し、全曲ミック・ジャガーとキース・リチャーズによるオリジナルで占められた初の作品だからと語られることが多い。それも重要なのだが、すでに'64年暮れ以来、シングル曲の制作拠点となっていた米国ハリウッドのRCAスタジオで初めて全曲が録音されたアルバムだったという点も大きい。『アフターマス』はハリウッドでの“創造的”レコーディング作業の集大成作でもあり、その中で彼らは自身の音楽を、ブルース/R&Bの実直な継承者としてのそれから、よりポップで色彩豊かなものへと飛翔させることになったのだ。
≪65年の終わりから66年の夏にかけてRCAで過ごした日々には、たしかに意識して手を広げた部分もあった。たとえば1966年3月に録音してイギリスで6回目の1位を獲得した「ペイント・イット・ブラック(黒くぬれ)」だ。「ギターはやめた」と言ってマルチプレイヤーに変身していたブライアン・ジョーンズがシタールを奏でた。俺にとっても、それまでとはちがうスタイルだった。俺には「ハヴァ・ナギラ」やジプシーのリックに近い気がしたな。(中略)もうシカゴ・ブルースの演奏者じゃなかったし、少し翼を広げてメロディと曲想を生み出す必要があった≫(『キース・リチャーズ自伝 ライフ』)
RCAスタジオでのそんな作業は二人の米国人の手を借りて続けられてきた。一人はジャック・ニッチェ。フィル・スペクターの下でアレンジャーを務めていた人物だが、RCAでのストーンズの録音現場にも顔を出し、キーボーディストやパーカッションなどを担当することもあった。もう一人の重要人物は同スタジオのハウス・エンジニアだったデイヴ・ハッシンジャー。彼の存在感の大きさは、その妻のエピソードが「マザーズ・リトル・ヘルパー」に歌い込まれていることからもわかる。またこの作品での実験的レコーディングに手を貸した経験を買われてか、後に彼はジェファーソン・エアプレインやラヴ、そしてエレクトリック・プルーンズ、グレイトフル・デッドらのサイケデリックな録音現場に呼ばれるようになる。
セッションは'65年12月と翌'66年3月の2回に分けて行なわれており、第1次セッションでは英国編集盤の冒頭に収められた「マザーズ・リトル・ヘルパー」が、第2次では米国編集盤の冒頭ソング「黒くぬれ!」等が録音されている。どちらの曲にもシタールを思わせる弦楽器の音が入っているが、前者のそれはキースが12弦ギターをスライドで弾いたフレーズであったことが本人により明かされている(『Guitar World』2002年10月号)。後者はもちろんブライアン・ジョーンズによるシタール演奏。そこに先のジャック・ニッチェが「ジプシー・スタイル」のピアノを加え、オリエンタルなメロディを持つユニークな楽曲が完成した(米『CRAWDADDY』誌'74年11月号)。短い期間にアイディアがどんどん進化していく彼らのクリエイティヴな勢いは、この2曲の間の発展プロセスからも窺い知ることができる。
ブライアンはこの他にもマリンバ(「アンダー・マイ・サム」「アウト・オブ・タイム」)や、フォーク歌手のリチャード・ファリーニャの音楽に魅せられたことから取り入れたというダルシマー(「レディ・ジェーン」「アイ・アム・ウェイティング」)を見事に弾きこなし、ギター以外の楽器で音色をより豊かにするような貢献が目立つ。それ以外にも、「ゴーイン・ホーム」後半のミックの見事なヴォーカル・パフォーマンス、ビル・ワイマンが弾くファズ・ベースの突進力(彼は「黒くぬれ!」の元になるアイディアも提供している)、チャーリー・ワッツのより強力になったバック・ビートとタムを効果的に使った表現力! そして「フライト505」のイントロでの、結成時のキーボーディスト、イアン・スチュワートのソロでのブギ・ウギ・ピアノまで、各メンバーの経験と創造力の集大成作でもあったのだ。
≪著者略歴≫
寺田正典(てらだ・まさのり):兼業系音楽ライター。1962年生まれ。『ミュージック・マガジン』編集部、『レコード・コレクターズ』編集部~同編集長を経て、現在は福岡県在住。著書は『ザ・ローリング・ストーンズ・ライナー・ノーツ』(ミュージック・マガジン刊/2014年)。
日本で一番人気のあるザ・ビートルズの曲は、「ヘルプ!」かもしれない。テレビ東京の人気番組『開運!なんでも鑑定団』のテーマ曲をはじめ、使用される機会は非常に多い。とにかくノリがよくてかっこいい(ビ...
1970年代からヒットを出すようになり、その低音ヴォイスで人気を獲得したバリー・ホワイトは、2003年7月4日、58歳の若さで死去した。バリー・ホワイトは、2002年9月、以前から患っていた高血...
1962年6月6日、ザ・ビートルズはEMI(アビイ・ロード)スタジオで初のスタジオ・セッションを行なった。あえて「セッション」と書いたのは、長年「オーディション」と言われていたこの日の演奏が、実...
1967年5月は、米国ロック/ポップス界にとってまさに「嵐の前の静けさ」月間だった。翌月開催された『モンタレー・ポップ・フェスティヴァル』が「ロック革命」の夜明けを告げ、ブライアン・ウィルソンが...
いまから58年前にあたる1961年4月24日は、全米シングル・チャートでデル・シャノンの「悲しき街角(Runaway)」が1位を獲得した日だ。ここから4週間も首位の座を守った大ヒット・ナンバーに...
ザ・ビートルズには秀逸な邦題がたくさんあるが、この曲も印象深い。原題の「チケット・トゥ・ライド」に対して担当ディレクターの高嶋弘之氏が名付けたのは、本稿の“主役”である「涙の乗車券」である。4月...
1963年3月23日、既発シングル2曲計4曲を含む全14曲が収録されたザ・ビートルズのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』がイギリスでリリースされた。イギリスで30周連続1位という驚異...
67年3月11日は、ディック・クラークが長年(1957年から89年まで)司会を務めたテレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』で、ザ・ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニ...
Death Of A Rolling Stone-The Brian Jones Story,孤独な反逆者の肖像,サティスファクションブライアン・ジョーンズは1942年2月28日に、英国のチェル...
今からおよそ30年前の事である。ザ・ローリング・ストーンズの初来日公演が1月6日に発表されると、僕の周囲は大騒ぎになった。僕の周囲どころか、日本中が大騒ぎになったような錯覚に陥った。テレビやラジ...
1968年、日本の音楽業界史上初めてのソウル・ミュージックのフェスティヴァル、モータウン・フェスティヴァルが行われた。スティーヴィー・ワンダー、マーサ&ザ・ヴァンデラス、そして、テンプテーション...
1月24日でニール・ダイアモンドが78歳になる。丁度1年前にパーキンソン病を理由にコンサートツアーからの引退を発表したが、その6カ月後の2018年7月には自分の住んでいるコロラド州のバサルトで4...
1965年9月13日に発売されたサイモン&ガーファンクルのシングル「サウンド・オブ・サイレンス」は、フォーク・ロック時代の波に乗って、ビルボード誌のチャートを駆けのぼり、12月にトップ10入り。...
1941年1月9日生まれだから、ジョーン・バエズはかつて何度も共演し、一時は恋人でもあったボブ・ディランよりもひと足先に78歳になった。リリースしたアルバムは軽く30枚を超す。バエズに与えられた...
本日1月8日は、“キング・オブ・ロックンロール”エルヴィス・プレスリーの誕生日。1935年生まれなので、生きていたら84歳ということになる。特に彼の誕生日を意識したわけではないのだが、お正月を迎...
1974年11月23日、ザ・ローリング・ストーンズの傑作『IT'S ONLY ROCK'N ROLL』が ビルボード・アルバムチャート1位を獲得した。“たかがロックンロール”と命名されたこの傑作...
1973年の本日、8月31日、ザ・ローリング・ストーンズの名作アルバム『山羊の頭のスープ』が本国、英国でリリースされた。1973年と言えば、1月に「ストーンズの初来日公演」が日本政府によって中止...
1967年6月29日木曜日、ミックとキースは麻薬所持で有罪判決を受けた。ほぼ半世紀前の出来事である。この裁判は、英国南東部にある小都市チチェスター市にあるウェスト・サセックス裁判所で行なわれた。...
「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」はローリング・ストーンズの沢山のヒット作の中でも、珠玉の名作である。来年、この曲が誕生して50年になろうとしているが、現在でもライヴ・コンサートでは定番曲で...
本日6月2日は、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツの76回目の誕生日。ロックンロールの代名詞のようなバンドのグルーヴを長く支え続けてきたのがチャーリー。決して派手とは言えないプ...
人生において「出会い」というものは、たいへん重要な出来事のひとつである。その偶発性において、幸せになったり不幸になったりする。言い換えれば、それが「運命」というものの正体かもしれない。アンドリュ...