2018年05月07日

本日5月7日は、ムッシュかまやつの実父であり、日本ジャズ界のパイオニア的存在ティーブ釜萢の誕生日である

執筆者:中村俊夫

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本日5月7日は、ムッシュかまやつの実父であり、日本ジャズ界のパイオニア的存在ティーブ釜萢の誕生日である。明治中期に単身渡米し、ロスアンジェルスで洋服店、クリーニング店、銭湯などを営んでいた釜萢兵一の長男として、1911(明治44)年5月7日に生まれたティーブ釜萢(本名・釜萢正)は、子供の頃から音楽好きでバンジョーやギターを習得。20代で日系人ジャズ・バンド「ショー・トーキアンズ」に参加する。時は1929年のウォール街株式市場の大暴落に端を発する世界大恐慌の真っ只中。ダンスホールも次々に閉店し、演奏活動もままならない状況の彼らが選んだのは、ジャズ人気に沸く東京のダンスホールでの仕事だった。


当時の日本は6年前の満州事変以降、関東軍による中国大陸への侵攻が激しくなり、7月には盧溝橋事件が起きて日中戦争が勃発というキナ臭い状況下にあったが、東京や横浜、そして上海の日本人租界などではダンスホールやクラブが賑わい、夜な夜なジャズ・バンドが出演。店は腕の良いミュージシャンの確保で競争となり、特にジャズの本場で活動している日系二世のバンドは引く手数多だったのである。


1937(昭和12)年、ティーブはバンドのメンバーたちと共に父の祖国である日本に渡り、東京のダンスホール等に出演。やがてメンバーたちが帰国後もティーブは一人残って、赤坂のダンスホール「フロリダ」などに出演していた。この時期に親交を深めたのが、コロムビア・レコードでスタジオ・ミュージシャンをしていた日系二世トランペッターの森山久で、ティーブが仕事先で知り合った浅田恭子と結婚すると、彼は恭子の妹でジャズ・シンガーだった浅田陽子と交際を始め結婚。この森山夫妻の長女として戦後に誕生したのが森山良子である。


釜萢家に長男・弘が誕生して2年後の1941(昭和16)年12月8日、日米開戦となり、ティーブも森山も帰国する術を失ってしまう。すでに前年10月に戦時体制強化のためダンスホールは閉鎖を命じられおり、1942(昭和19)年には敵性音楽と見做されたジャズの演奏が禁止となった。そんな時期にティーブは米国籍を捨て日本国籍を取得。日本語がまともに喋れないまま帝国陸軍兵として応召され、中国漢口の輸送部隊に配属される。兵站輸送トラックの運転をしていたという。


1945年8月に終戦を迎えても、中国で捕虜として収監されていたため帰還できたのは2年後。先ずは森山の紹介で彼もメンバーだった松本伸とニュー・パシフィック・オーケストラにシンガー&ギタリストとして参加するが、しばらくして、渡辺弘とスターダスト・オーケストラの専属歌手となり、もっぱら米兵相手に演奏活動していた。1950年には日本初のジャズ・ヴォーカル専門学校『日本ジャズ学院』を設立。校長兼講師のティーブのレッスンを受け、ペギー葉山、平尾昌章(昌晃)、ミッキー・カーチス、武井義明など錚々たる顔ぶれがプロとして巣立っていった。息子の弘も高校時代に同校に通っていたが、他の生徒と一緒に実の親から教えを授かるという居心地の悪さからか、短期間で退校している。


そんな弘が「かまやつヒロシ」名義で歌手デビュー後の61年2月、東京・大手町のサンケイホールで初の親子共演リサイタルを開催。ティーブが名付け親となったザ・スパイダースの一員として息子が売れてからは、アルバム『ムッシュー~かまやつひろしの世界』(70年2月)収録の「僕のハートはダン!ダン!」で初の共演レコーディングが実現した。これがきっかけとなり、71年に共演アルバム『ファーザー&マッド・サン』を制作。77年には、1920年代に米国で青春を過ごしたティーブと、1950年代に青春を謳歌した息子の趣味性やライフ・スタイルの違いが巧みに歌いこまれた共演作品「1920 & 1950」を自主制作シングルとしてリリースしている。


78年に、ティーブは細野晴臣のアルバム『はらいそ』のレコーディングに参加し、「ジャパニーズ・ルンバ」を歌った。一説には、70年公開の米映画『MASH』の中で流れる「私の青空(My Blue Heaven)」を歌っているのがティーブであることを知った細野が興味を持ったことが、このセッションのきっかけと言われているが、同映画では、「私の青空」以外にも「東京シューシャインボーイ」「ジャパニーズ・フェアウェル・ソング」なども使用されている。細野の「トロピカル三部作」制作の原点はここにあったのだろうか?


79年2月25日、かまやつひろしがアルバム『スタジオ・ムッシュ』をリリース。アレンジを変えて再録音した「1920 & 1950」が収録されているが、これが親子共演最後の作品となってしまった。1980年3月10日、ティーブ釜萢永眠(享年68歳)。最期までダンディで小粋な歌いっぷりが魅力的な明治生まれのジャズ・シンガーであった。


≪著者略歴≫

中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。最新著は『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)。

シング・ア・シンプル・メロディー ティーブ釜范 (アーティスト)

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