2019年07月22日
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2019年07月22日
「西に沈んでいく夕陽を眺めながら、いつもこう思っていた。『ああ、あの太陽はカリフォルニアに沈んでいくんだ。いつかきっと、あそこに行ってやる』ってね。カリフォルニアは成功への夢そのものだった」(『ホテル・カリフォルニアへ、ようこそ』マーク・シャピロ著、山本安見訳)。
ドン・ヘンリーが、テキサスの小さな町リンデンで、少年時代から憧れていた風景は、テレビの画面や雑誌のグラビアに映されたカリフォルニアだったという。また、リンデンの町は人口約2000、小さくて、退屈きわまりなく、何もやることがなくて、することと言えば、座って夕陽を眺めることくらいだったとも、加えている。
例えば、ピーター・ボグダノビッチが映画『ラスト・ショー』で描いたり、ジョン・クーガー・メレンキャンプが「ジャック&ダイアン」で歌ったりしたアメリカの小さな田舎町に暮らす若者たちにとって、カリフォルニアがどういう存在だったか、これほど的確に言い表した言葉はないのではないだろうか。
アメリカばかりではない。遠く太平洋を挟んだ日本だって変わらない。彼ほどの強い思いはなかったけれど、九州の田舎町で育ったぼくにだって、青く、高く広がる空、そこにそびえるヤシの木は憧れだった。コンバーティブルの幌を開けた車が、風を切って颯爽と走っていく。水着姿の若い女性たちが、潮風に髪をなびかせながら歩いている。それはもう、日常とはかけ離れた夢の世界だった。もちろん、1970年代に初めてカリフォルニアに足を踏み入れたとき、こういう景色ばかりだった訳ではなかったのだけど。
それでも、ドン・ヘンリーは、友人のリチャード・ボウデンやスティール・ギタリストのアル・パーキンスらと組んだバンドで、カリフォルニアへ。そのバンド、シャイローは、エイモス・レコードでアルバムを発表するが、成功までには至らなかった。ただし、そこで、レーベルメイトとなる若者と知り合う。それが、デトロイトからやってきていたグレン・フライだ。
二人はその後、1970年代のカリフォルニアの代名詞となるイーグルスで両翼を担うことになる。ドン・ヘンリーは、ドラムスを担当し、曲を書き、そして歌った。殊に、愁いを帯びた翳りのある歌声は、ヴォイス・オブ・イーグルスとも呼ばれるようになり、イーグルスの大きな魅力となっていく。
「魔女のささやき」、「ならず者」、「我が愛の至上」、「呪われた夜」、「ラスト・リゾート」、そして、「ホテル・カリフォルニア」等々、彼がリード・シンガーとしてかかわった作品は、強烈な印象を残した。カリフォルニアという従来のイメージに、翳りというか、深みというか、重みというか、そこは青い空の楽園とは限らないということを教えてくれることになるのだ。少なくとも、「ホテル・カリフォルニア」が、彼以外の歌声だったとしたらどうだろう。
翳りに加えて、艶っぽさも寄り添わせた歌声は、女性シンガーたちにも重宝された。というか、女性の歌声に映えた。フリートウッド・マックのスティーヴィー・ニックスとは、「レザー・アンド・レース」を、パティ・スマイスとは「愛をこえて」、シェリル・クロウとは「イッツ・ソー・イージー」をと印象深いデュエットを残している。
イーグルスの後も、メンバーの中ではいちばん成功した。85年には、「ボーイズ・オブ・サマー」が全米5位を記録、グラミー賞のベスト・ロック・ヴォーカルを受賞した。89年の「エンド・オブ・ジ・イノセンス」も8位を記録、グラミー賞のベスト・ロック・ヴォーカルに輝いた。他にも、「ダーティー・ランドリー」、「オール・シー・ウォンツ・トゥ・ドゥ・イズ・ダンス」等々がヒット・チャートを賑わした。
7月22日は、そのドン・ヘンリーの誕生日にあたる。1947年生まれなので、72才になる計算だ。イーグルス時代の傑作の数々が印象深いが、ソロとしての「ボーイズ・オブ・サマー」も、ぼくには忘れられない。恋の終わりを、過行く夏と重ねながら切なく描いた曲で、古い映画を思わせるようなモノトーンのビデオ・クリップも評判になった。
夏の終わり、誰もいなくなった浜辺、その静けさに耳をすますと、同じ浜辺に響き、弾んでいた二人の笑い声が聞こえてきそうだ。手をつないで二人で一緒に走った波打ち際の感触が思い出される。イーグルスという青春を、夏を過ごした彼が、また新たな季節へと踏み出していく。そこに寄り添う哀愁が何とも言えなかった。そして、ぼくもまた、漠然とだけど、彼と同じように少し大人になったような気がしたものだった。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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