2019年02月26日
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2019年02月26日
軽やかというほどではなく、そしてまた、重すぎるわけでは全くない。さりげないというのが、いちばんだろうか、ちょうどいいテンポに誘われるように、グレン・フライの歌声が流れ始める。40年以上も前のことだが、まるで、1枚の写真におさまった景色のように、その瞬間のことははっきりと覚えている。1976年12月、カリフォルニアとは言え、さすがに冷えを感じる朝だった。イーグルスの「ニュー・キッド・イン・タウン」がラジオから流れたときのことだ。
たまたまカリフォルニアに滞在していたこともあり、イーグルスの新作が店頭に並ぶのを待ちながら、レコード店に足を運ぶ日が続いた。ただし、その日はなかなかやってこなかった。アルバム『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』の成功によるプレッシャーもあってか、新しいアルバムは難産を極めていたからだ。1976年3月にロサンゼルスでレコーディングを始めた彼らは、フロリダのクライテリア・スタジオに場所を移したが、いっこうに作業が好転することはなかったという。
その間、コンサート・ツアーを行ったのも彼らから時間や体力を奪ったし、メンバー各自が友人たちのレコーディング・セッションに駆り出されたこともあって、遅々として作業は進まなかったという。カーリー・サイモンの『見知らぬ二人』、ロッド・スチュワートの『ナイト・オン・ザ・タウン』、リンダ・ロンシュタットの『風にさらわれた恋』、ウォーレン・ジヴォンの『さすらい』、ジャクソン・ブラウンの『プリテンダー』等々、当時のアルバムには必ずと言っていいほど彼らの誰かの名が記されていた。
それでも、アルバム『ホテル・カリフォルニア』は完成し、1976年12月8日に店頭に並ぶ。そして、夕暮れ時のビバリー・ヒルズ・ホテルが写しだされた例のジャケットと共に一世を風靡することになるのである。グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュ、ランディ・マイズナーの5人、つまり、ジョー・ウォルシュが新たに加わってからの初のアルバムであり、その成果は、表題作でのドン・フェルダーとのめくるめくようなギター・バトルに早速現れた。
このアルバムが、ロック史を彩ることになるのは、もちろん、いまや3000万枚を超えるとも言われるセールスにもよるが、アメリカの夢や自由の象徴とされてきたカリフォルニアを題材に、アメリカという国に、時代に、彼らがひたむきに向き合い、その姿を生々しく吐露していたからだ。アメリカという国の繁栄がいかに大きな犠牲の上に成り立ってきたか、その過程で如何に大切なものを失ってきたか、それを彼ら自身の成功と重ねて、彼らはこのアルバムで問いかけた。しかも、建国200年へのメッセージとしてだ。
「ニュー・キッド・イン・タウン」は、そこからの第1弾シングルとして発売された。翌1977年2月26日、マンフレッド・マンズ・アース・バンドが、ブルース・スプリングスティーンの曲を取り上げた「光に目もくらみ」に代わって全米チャートの1位に。グラミー賞でも最優秀ヴォーカル・アレンジ賞に輝いた。作者は、ドン・ヘンリー、グレン・フライ、そしてJ.D.サウザーの3人だ。『ベスト・コレクション(リミテッド・エディション)The Complete Greatest Hits』に寄せられたドン・ヘンリーの言葉によれば、功労者はJ.D.サウザーで、この曲は、彼の赤ん坊と言った表現を使っている。
そこでのヘンリーの言葉を要約すると、こうだ。音楽においても、恋愛においても、いまはもてはやされていても、それは永遠には続かない。次に、別の誰かが現れる、そのことを歌に託しているのだと。つまり、人生の有為転変というか、栄枯盛衰というか、盛者必衰というか、少し大げさに言えばそういう哲学さえこの歌には覗くことができるのだ。しかもそれを、眉間に皺を寄せながら説くのではなく、淡々としたテンポで歌いつづっていくあたりに、彼らの知恵があった。アルバムの中でも、「ホテル・カリフォルニア」に続いてさり気なく流れ、重苦しさを解きほぐすようなこの曲に、当時どれほど救われただろうかとも思う。
J.D.サウザーと言えば、イーグルス誕生前夜にはグレン・フライと一緒にロング・ブランチ/ペニー・ホイッスルを組んで活動していたのはよく知られるところだが、イーグルスの近くにいて、ソングライターとして貢献した。「ドゥーリン・ドルトン」、「我が愛の至上」、「ジェームス・ディーン」、「ヴィクティム・オブ・ラヴ」、「ハートエイク・トゥナイト」、「サッド・カフェ」等々だ。この中で、「我が愛の至上」は、イーグルスにとって初の全米ナンバーワンに輝き、「ニュー・キッド・イン・タウン」は、3枚目の全米ナンバーワンとなった。
そればかりか、2007年、スタジオ録音による新作としては、1979年の『ロング・ラン』以来28年ぶりにあたる『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』でも、アルバムに先駆けて発売された第1弾シングルの「ハウ・ロング」は、J.D.サウザーの作品だった。それも、彼が1972年に発表したデビュー・アルバム『ジョン・デヴィッド・サウザー』からのものだった。
≪著者略歴≫
天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
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