2017年10月05日
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2017年10月05日
ユーミンのセカンド・アルバム『ミスリム』は1974年10月5日にリリースされた
ジャケットからして印象的なアルバムだ。当時荒井由実だったユーミンはピアノの前にドレスを着てこちらを向いて座っている。この写真は川添梶子の家で撮影された。グランド・ピアノも彼女のものだ。
川添梶子と夫の浩史は、東京の芸能・文化の世界では知らない人がいない存在だった。彼らが六本木の飯倉で経営していたイタリアン・レストランのキャンティは1960年代から芸能人や文化人が出入りする有名な店で、「六本木の女王」と呼ばれた川添梶子はサンローランの代理人もしていていた。ユーミンが着ているのもサンローランのドレスだ。
ユーミンは少女時代から川添梶子に気に入られていた。ユーミンの才能を見出したアルファ・ミュージックの村井邦彦も、かけだしの作曲家だった学生時代、「ある時払いの催促なし」でキャンティに出入りすることを許されていたという。そのあたりのことに興味がある人は、ユーミンの『ルージュの伝言』や野馳秩嘉の『キャンティ物語』に詳しいことが書かれているので、ごらんになってほしい。
日本の女性シンガー・ソングライターが、こんなゴージャスなセッティングでピアノと共にジャケットに登場したのは、はじめてのことだった。というより、女性シンガー・ソングライターが数えるほどしかデビューしていなかった時代だ。それだけに一挙手一挙動がそのまま歴史に刻みこまれることを意味する立場にいた。
ユーミンのデビュー作『ひこうき雲』は関係者の注目を集めていたが、一般的なヒットにはほど遠い状態だった。それでも、セカンド・アルバムの『ミスリム』のジャケットにまで、そのへんのピアノではなく、伝説的な女性の持ち物のピアノを使うというこだわりからは、スタッフも一丸となってとにかく細部まで少しでもいいものを作ろうと情熱を傾けていたことが感じられる。それは評価とは後からついてくるものだという思いに賭けられる環境があったということでもあるだろう。
キャラメル・ママとの共同作業で作られた『ひこうき雲』に続いて、『ミスリム』の基本的な演奏もキャラメル・ママが担当した。キャラメル・ママは主にレコーディング・スタジオでシンガー・ソングライターや歌手のサウンド・プロデュースを手かけていた鈴木茂、松任谷正隆、細野晴臣、林立夫の4人によるユニットだ。このアルバムから編曲は松任谷正隆が中心になって行うようになった。
両者の出会いが手探りのういういしさを感じさせる『ひこうき雲』とちがって、『ミスリム』には完成されたポップな世界が広がっていた。聴いた瞬間に、日本のシンガー・ソングライターの音楽の新しい次元がはじまったと思わせるアルバムだった。
このアルバムからシングルで大ヒットした曲はないが、収録曲のほとんどがコンサートの人気曲になった。「海を見ていた午後」の舞台になった横浜のレストランには、いまも観光客が巡礼に訪れる。長崎県立奈留高等学校の生徒から頼まれて、校歌として作った「瞳を閉じて」は、日本で最も有名な校歌だろう。校歌をアルバムに違和感なく入れた人は誰もいなかった。フレンチ・ポップスの歌手に捧げた「私のフランソワーズ」のような歌も、それまでの日本のポップスには存在しないものだった。「はじめて」がいっぱいのこのアルバムが、いまも名盤として語り継がれているのは当然である。
≪著者略歴≫
北中正和(きたなか・まさかず):音楽評論家。東京音楽大学講師。「ニューミュージック・マガジン」の編集者を経て、世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。著書に『増補・にほんのうた』『Jポップを創ったアルバム』『毎日ワールド・ミュージック』など。
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