2016年05月10日

今から48年前の今日1968年5月10日は、ザ・スウィング・ウエストのヒット曲「雨のバラード」の発売日。

執筆者:中村俊夫

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今から48年前の今日1968年5月10日にリリースされたザ・スウィング・ウエストの5thシングル「幻の乙女」は、なかにし礼(作詞)&鈴木邦彦(作曲)のヒットメーカー・コンビによるGS歌謡バラードの佳曲だったが、思いの外ヒットに結びつかずセールスも低迷していた。しかし、名古屋・大阪地区でB面の「雨のバラード」の人気が徐々に高まり、東海・関西のラジオ局でも「雨のバラード」を流す番組が急増したことから、急遽、両A面扱いのジャケットに差し替えた新装盤をリリースしたところ、彼らにとって最大のヒット曲(オリコン50位)にして代表曲となったのである。


スウィング・ウエストのルーツは、人気カントリー&ウエスタン・バンド「ワゴン・マスターズのメンバーだった堀威夫(ギター)と寺本圭一(ヴォーカル)が中心となって1957年3月に結成した9人編成のカントリー/ロカビリー・バンド(当時は「スイング・ウエスト」と表記)。清野太郎、佐川ミツオ(現・佐川満男)、守屋浩、清原タケシといった歴代の人気歌手を擁し、のちにザ・スパイダースを結成する田辺昭知(ドラムス)も在籍していた名門バンドだった。


60年5月に堀威夫がホリプロ(当時の名称は堀プロダクション)創業のため脱退後、メンバー・チェンジが相次ぎ、64年にはビートルズ、ベンチャーズ等、新しい音楽のトレンドに対応した楽器編成でエレキ・バンドに変身。エレキ・ブームの沈静とGSブーム前夜の端境期でもあった66年7月にビクターから「流れ者のギター」でレコード・デビューしている(当時のメンバーには翌年ザ・カーナビーツに参加する喜多村次郎もいた)。


GSの時代が到来した67年夏には、植田嘉靖(リーダー、ギター)、湯原昌幸(ヴォーカル)、梁瀬トオル(ギター、ヴォーカル)、飯田隆二(ベース)、横山博二(キーボード)、商口弘孝(ドラムス)というGSに対応したラインアップで、バンド名の表記も「スウィング・ウエスト」に変えてテイチク(ユニオン)より、アメリアッチ調の「恋のジザベル」で再デビュー。その直後にリーダーの植田がバンドのマネージャー役に徹することとなり、後任として坂本隆則(ギター)が参加した。


以後、「スキーがからだにとっついた」(67年11月)、「君の唇を」(68年1月)、「ストップ・ザ・ミュージック」(68年2月)とコンスタントにシングルをりりースしながらも今ひとつ決定打に欠けた彼らにとって、初ヒットとなったのが前述の「雨のバラード」だったのである。作詞・作曲を手がけたのはマネージャーの植田嘉靖。作詞者としてクレジットされている「こうじはるか」とは植田のペンネームだ。


基本的に湯原昌幸と梁瀬トオルのデュオで歌われているが、サビのクライマックス「雨が消してしまった~」の部分を聴いてもわかるように、あくまでもメイン・ヴォーカルは梁瀬である。ヴォーカリストということで湯原のソロと勘違いされている人も多いようだが、これはスウィング・ウエスト解散後にソロ転向した湯原が、ソロ第2弾シングルとして「雨のバラード」をリメイクして71年4月にリリース。見事オリコンNo.1に輝いたことで、同曲をスウィング・ウエスト時代からの湯原の持ち歌と印象付けてしまったことも大きいのだろう。


「雨のバラード」のヒットによって、スウィング・ウエストは中堅GSとして活躍。テイチク(ユニオン)に10枚のシングルとエレキ・インスト・アルバム4枚、疑似ライヴ・アルバム1枚を残して70年に解散している。理由は不明だが、最後の3枚のシングル…「そよ風のバラード」(69年3月)、レッツ・ダンス(69年6月)、「孤独」(69年9月)は、バンド名の表記が再び「スイング・ウエスト」に戻っている。69年というGS凋落期の中においても、1957年以来続く名門バンドの栄えある名称と誇りを忘れまいとする強い意志の表れだったのだろうか?


雨のバラード/ザ・スウィング・ウエスト・オン・ステージ(紙ジャケット仕様)

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