2017年05月30日
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2017年05月30日
今から約40年前、僕がジミー時田さんに弟子入りして、新宿の『WISHBONE』というカントリー音楽専門のライヴハウスでウエイターをしていたときに、一度だけ小坂一也さんをお見かけしました。当時は、歌手というより、俳優さんとして活躍されていた小坂さんはとてもシャイな感じの方で、小坂さんが“元祖和製プレスリー”と称された素晴らしい歌手だと知ったのは、恥ずかしながら、小坂さんがその夜、お店を出られたあとにその店の店長から聞いて初めて知ったのでした。
小坂さんは、1935年(昭和10年)5月30日に名古屋市で生まれ、幼いときに上京し、小学校から高校まで成城学園で学びました。ラグビーに勤しんでいた高校生の1952年の夏に、小坂さんは先輩にあたり、当時“和製ハンク・ウィリアムス”と将来を嘱望されていたワゴン・マスターズのリード・ヴォーカリストの藤沢恵治さんに連れられて、ワゴン・マスターズのステージに足を運んだのが歌手活動の始まりでした。
中学時代からカントリー・ミュージックに惹かれていた小坂さんは、ワゴン・マスターズに歌手として加入し、米軍キャンプを中心に活動を始めます。初期の小坂さんはレフティ・フリゼルを手本としていたことで、その歌声に客席から良く「レフティ!」と歓声が上がったといいます。
歌手活動が忙しくなったことで成城学園を中退した小坂さんでしたが、1954年にオリジナル曲の「ワゴン・マスター」でコロムビアよりレコード・デビューを果たします。
カントリー界のアイドル的存在の歌手として小坂さんは一世を風靡します。そして、1956年には、当時アメリカでロカビリー旋風を巻き起こしていたエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」をレイモンド服部さんの訳詞でリリースします。
これが小坂さんがその絶大な人気も相まって“元祖和製プレスリー”と称されるきっかけとなりました。
この年の大晦日、小坂さんは紅白歌合戦に出場、「ハートブレイク・ホテル」を歌っています。
小坂さんはこの他にも「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー」や「君を求めて」(オリジナル邦題は「お前が欲しくて」)などエルヴィスのレパートリーをカヴァーしていますが、小坂さんはエルヴィスの歌唱を真似ることなく、あくまで小坂さんの歌としてどれも独立しているところが大変な魅力といえます。和製プレスリーと称されたものの、小坂さんは足を広げ、エルヴィスのようにギターをかき鳴らし、絶叫するスタイルではなく、あくまでカントリー歌手の範疇での歌唱スタイルでした。
そんな中、1958年2月に社会現象ともなる、第1回日劇ウエスタン・カーニバルが開催されます。エルヴィスのように足を広げ、ギターをかき鳴らし、絶叫する平尾昌晃さん、ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さんといった“ロカビリー三人男”がこのとき登場します。小坂さんはこの日劇ウエスタン・カーニバルには出演していません。日本の“グランド・オール・オプリー”と呼ばれたウエスタン・カーニバルというイベント自体は1954年から有楽町のヴィデオホールで定期的に開かれ、日劇ウエスタン・カーニバルが開催される前年の1957年11月にも行なわれ、このとき既にロカビリー三人男も出演していたにもかかわらず、小坂一也とワゴン・マスターズはそのときのトリを務めています。
相変わらずの人気だったにもかかわらず、小坂さんは何故、第1回日劇ウエスタン・カーニバルには出演しなかったのでしょうか? それは、小坂さんのバンドだったワゴン・マスターズがこのとき解散状態にあったからだということでした。人生に“たられば”は無いと言いますが、もし第1回日劇ウエスタン・カーニバルに小坂さんが出演していたら? などと考えたりもしてしまいます。
日劇ウエスタン・カーニバルに出演しなかった小坂さんは、雑誌の座談会でこのときの日劇でのショーを見てこう振り返っています。「これはもうかなわない、引退かなって思いました(笑)」と。
1957年に劇中の歌手役として出演したのをきっかけに小坂さんは映画俳優としての道も歩み出します。そして1958年には木下恵介監督の作品にも出演。その演技力に磨きがかかったことで、松竹映画では欠かせない俳優へと成長して行きます。その後は映画のみならず、数々のテレビドラマにも出演。1960年代からは“俳優・小坂一也”の名を欲しいままに活躍されました。歌手として、俳優としても活躍された小坂さんでしたが、1997年(平成9年)11月1日、食道ガンで還らぬ人となってしまいました。享年62歳。
小坂さんの「ワゴン・マスター」をぜひ聴いてください。そのバタ臭い、されど哀愁漂う歌声とサウンドはきっと現代の皆さんにも素敵な癒しのひとときを運んでくれると僕は確信しています。
≪著者略歴≫
ビリー諸川(びりー・もろかわ):1957年東京生まれ。1989年にFUロカビリー歌手としてメジャーデビュー。1995年には小説を上梓し、作家デビューも果たす。'02年には平尾昌晃氏よりロカビリーの伝承者に任命される。全日本ロカビリー普及委員会会長。座右の銘は、生涯ロカビリー。
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