2016年11月25日

今日11月25日は、若き日の吉田拓郎がファンだったというデ・スーナーズのセカンド・アルバム『ポートレイト・オブ・デ・スーナーズ』の発売日

執筆者:本城和治

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48年前の1968年の今日、フィリピンの実力派5人組GS、デ・スーナーズのセカンド・アルバムがフィリップス・レコードから発売された。


彼らは63年にマニラで結成されたグループで、香港で活躍していたところを加山雄三氏の妹夫妻にスカウトされ67年に初来日、加山雄三経営の『パシフィックホテル茅ヶ崎』のレストラン専属バンドとなったのは有名な話。私は後にロック・ミュージカル日本版『ヘアー』のプロデューサーになった川添象郎氏から紹介されて再来日したデ・スーナーズのデビュー・アルバム『リズム&ブルース天国』を68年の春に制作し7月25日に発売した。


いきなり新人グループをLPデビューさせたわけは、彼らのずば抜けた演奏能力の高さに圧倒されたからである。尤もアルバムのコンセプトは当時ディスコを中心に日本でもブームになっていたR&Bのベストヒット集という選曲企画にあった。当時のどのGSグループも敵わない独特のビート感やヴォーカル表現力を持った彼らは国際都市香港で鍛え抜かれてきた実力を発揮する。


私が驚いたのは彼らが演奏したこともない曲をレコーディングする際、スタジオのミキサールームでオリジナルのレコードを2,3回聴かせるとすぐスタジオに入って音出しをはじめ、3回も練習すれば完璧に音楽を完成させることが出来るその能力の高さと信じられない耳の良さであった。レコーディングした曲の7,8割は彼らのステージ・レパートリー曲ではあったが、とにかくレコーディングも早かった。


ヴォーカルはリーダーのクリス・ソラ-ノの甘いソフトな声とロニー・パリーニャのパワフルなダイナミック・ヴォイスが対照的でうまくレパートリーをカヴァーしており、特にロニーの歌う18番のジミー・ヘンドリックス・ナンバー(4曲収録)はジミヘン生き写しの迫力があり、スパイダース他日本のGSのメンバーの間でも大変な評判になっていた。また学生時代の吉田拓郎は広島でデ・スーナーズのLPを買って「マイ・ガール」などを一生けん命バンドでコピーしていたという話だ。


デビュー・アルバムは選曲の魅力もあって好セールスを記録、すぐにセカンド・アルバムが企画された。1作目同様のR&Bヒッツに留まらず、クリーム、ドアーズ、サイモン&ガーファンクル、フランキー・ヴァリ、ザ・レターメン等のディスコ向き名曲に加え彼らの2枚のシングル・オリジナル曲両面も収録し、『ポートレイト・オブ・デ・スーナーズ』のタイトルでデビュー・アルバムから4か月後の11月25日に発売したのである。これも1作目には及ばぬものの一応のセールスを記録したが、2枚のシングルは残念ながらヒットしなかった。


彼らは都内をベースに六本木のクレイジー・ホース、赤坂のMUGEN、霞町のSPEEDなどのクラブや高級ディスコで演奏活動を行い、日本のGSのようにジャズ喫茶やコンサート会場で演奏することは殆どなかった。当時出稼ぎ来日しディスコなどの“ハコ”で演奏するフィリピン・バンドがごまんと在ったがスーナーズは実力が別格であった。従ってファンもミュージシャンやマニアックな文化人、芸能人等が多かった。


メンバーの中で最年少(当時18歳)のドラマー、エディ(エドモンド・フォルトゥノ)が可愛くてアイドル的人気があったが彼のドラムは当時日本で一番へヴィなロック・ビートを叩き出して若いミュージシャンやロックファンの注目を集めていた。そのエディが暫くしてLSDで捕まりフィリッピンに強制送還になってしまったのは大変残念だった。


≪著者略歴≫

本城和治(ほんじょう・まさはる):元フィリップス・レコードプロデューサー。GS最盛期にスパイダース、テンプターズをディレクターとしてレコード制作する一方、フランス・ギャルやウォーカー・ブラザースなどフィリップス/マーキュリーの60'sポップスを日本に根付かせた人物でもある。さらに66年の「バラが咲いた」を始め「また逢う日まで」「メリージェーン」「別れのサンバ」などのヒット曲を立て続けに送り込んだ。


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ポートレイト・オブ・デ・スーナーズ(紙ジャケット仕様) デ・スーナーズ

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